私は、小学校2年生の担任が大嫌いだった

授業の記憶は全く残っていない

ただ、そのころには、家庭での威圧感から解放れ、学校での解放感は感じていた

そして、雨の日、友達と2人で、廊下でPK合戦をしていた

蹴ったのは友達だった 右45度の角度でそのボールは飛んでいき、大き目の展示品の収納してあるガラスに当たり、ガラスが割れた

私は、まず、ほかの人がけがをしてはいけないから、ガラスを片付け、先生に誤りに行こうと考えた

そこで、ほうきとちりとりを取りに行った

もちろん、それは休み時間、周りにたくさんの人が周りにいたため、わぁ~っと人だかりができた

その間に、担任も知れることとなった

そこへ私がほうきとちりとりを持って戻ってきた

その担任が私を「ガラスを割って逃げた」と決めつけた・・・・

私は、「まず、だれもけがをしないように、最初に片付けようと、ほうきとちりとりを取りに行きました」 といっても、信じてもらえなかった

その後も「ガラスを割って逃げた卑怯な生徒」 と言われ続けた もう、有無を言わされなかった

そして、その後の時間は学級会

友だちと2人で、学級がとりまく被告席・・・・そして、「この2人がガラスを割ったんだけどどうするか」 「このガラスは大きくて高価だ」

結局ガラスの代金は折半、お互いの親に自分で報告することとなった

高価なガラスなだけに、クラスの友だちたちが、カンパしようということになった・・・・それには、すごく感謝した

あとは、私の頭にあるのは、どう親に報告するかだった

しかし、結局怒られるのが怖くて、夜まで言い出せず、一緒に遊んでいた友人の家から電話があり、そこで、初めて事を知られた

私の頭の中は恐怖で渦巻いていた

結局、その月は小遣いなし

クラスの友だちに協力してもらい、なんとか、弁償することができた

あの時の、恐怖感は今でも忘れない

私は、素直に、悩みや困りごとを親に相談すらできない子になっていた

 

もちろん、小学校2年生の成績は良くなかった

3段階の1番下が3つに増えていた

私の親は何が何個あった・・・それしか見ていない 項目なんて、そんなの関係ないようだった

はっきり言って、容量・・・・?Lはわかるけど、dLって??

だから、容量はわからなかった

そのときの私のテストの結果は70点・・・・授業を聞いていてもわからないのだから、仕方ない結果だった

でも、私の親はじゃあ、わからないところをわかるように説明しようという思考は持ち合わせていなかった

「どうして、こんな点を取ってくるの」 「こんな点を取ってくるようでは、お小遣いをやらない」 「もっと勉強しなさい」 「これから、80点以上を取ってきなさい」 

今思えば、母親もこの内容は理解していなかったんだろうなって思う

それから、母親が勉強で優位に立てる漢字・・・・そればかりは毎日1ぺーじずつやらされた

そして、自由勉強として、当時B5判だったが、ノート1ページ分の勉強も追加

もちろん、学校の宿題もやった

このころは、私の思考は勉強をするものではなくて、させられるもの、辛くて苦しいだけのものになっていた

そして、私は悪い結果のテストを親に見せられなくなった

家に置いておくと、すべての家探しをする親の存在を知っていたから、学校の机の中に置いて行った

その後、小学校を卒業するまで、それは続いた

そして、私にとっての最悪の日は父兄会・・・・授業参観は問題ない 適当なことを手を挙げて発表すればいい

しかし、最悪はその後の懇談会・・・母が学校に来ないことを祈ったがそう甘くはなかった

そのため、私は卒業するまで、懇談会の夜、めちゃくちゃ怒られ続けた・・・・私の中ではテストのたびに怒られるよりはましだった

私が小学校1年生の時に、すでに、将来なにになるのか決められた

そのころは、冷蔵庫の中にある飲み物も「ヤクルト飲んでいい?」 「麦茶、飲んでいい?」と聞かなければ飲めない子にさせられていた

いつも、親は苦虫をつぶしたような顔で笑顔を見て育ってきていなかったから、親のご機嫌をうかがいながら生活していた

 

そんな中、本来なら、小学生、中学生と、子どもの興味、適性を学校や親戚、本人も含めて相談しながら進路というものは絞っていくのだろう

そして、適切な仕事に就き、健全な家庭を持ち、老いていく・・・・もちろん、現在、私はそれができていない

 

いつの間にか、母親の中で、「あんたは、公務員にする」 「弟は、(大手の)工場に勤める」と決められていた

そこから、私への洗脳が始まった

小学1年生から、ことあることに、そのことばかり言われてくれば、まだ、親が絶対的な存在の私を洗脳することは簡単だったんだろう

小学1年生の私には、もちろん将来のビジョンなど持ち合わせてはいなかった

まだ、近所の友だち、学校の友だちと遊びたい盛りだった・・・・が、それも叶わなくなった

 

私はそれからそろばんに月・火・水・金、オルガンの練習に土、水泳教室に日 と通わされた

こんな生活がこの後小学生の間続いた

2年生になって月曜日に英語教室が追加された・・・・もちろん、私はそんなことに興味はない

だから、ただ、親からやらされている、友だちとの時間を奪われているだけのもの

レッスンなんか身につくわけもないし、自分から練習するわけもなかった

だから、ほとんど上達はしなかった