小学校4年生のとき、クラスが変わった

近所の友だちも同じクラスになった

相変わらず私は学級委員に立候補した・・・・させられた もちろん、やりたかったわけではない

そして、私は推薦者を募るとき、近所の友人の名前を出した結果、その友人が当選した

その後、2学期に入ったころ、学級が崩壊した

担任は登校拒否でしばしば休んだ

クラスに大きな集団ができ、数人の集団をいじめた

その小さな集団は、数か月おきにメンバーを変えたため、私も、いじめる側にも、いじめられる側にも入るようになった

やらなければやられる・・・・それを実感したのはこの時だった

もちろん、まともな授業など成立しない

次週の時間が多くなり、その時間には、どこからともなくリコーダーがなりはじめる しかも、メロディーのない奇声のような音

隣のクラスの先生・・これまた、恐ろしい先生がよく血相を変えて怒鳴り込んできた

 

そして、学年も後半になって、荒れた環境、役もなくなった私は、習い事のほんの隙間に自分の時間を持てるようになってきた

 

相変わらず家に帰ると漢字の書き取り、宿題、ノート1ページの勉強はやらなくてはならなかった

母は、仕事場から戻ってくるとき、私たち(私と弟)が勉強をしていないと、以前にも増して怒るようになっていた

とにかく、常に私たちが勉強机に向かっていないと不愉快だった

そのため、私たちは親がいないときにテレビを見て、階段を降りる音、ドアが開こうとする音がするとすぐにテレビを消し、勉強机に向かい勉強をするふりをするようにした

そのころからだ、私が小さい音にナーバスに敏感になってきたのは

さらに運悪く、ガンダムが始まってしまった・・・私はガンダムのとりこになった

だから、ときどきテレビを消して勉強机に戻るのが失敗すると、「なんで、テレビばっかり見て、勉強してないの」 と怒り立てるようになった

 

そのころからだった、毎月1,000円の小遣いでは足りず、親の財布などから少しずつくすね始めたのは

両親、私、弟の4人家族

父は会社の帰りが遅く、幼児期の記憶もあり、恐ろしい存在だった

母は自宅で習い事の教室をしていたため、午後はほとんど仕事

私は母親が心から笑顔を作っている姿を見たことがない

笑顔を作らない親だと、子供心に、親が笑顔を作ってくれると嬉しくなる 親を笑顔にさせたい 親を喜ばせたいという気持ちになる

私は学校生活の話をした

テストでいい結果を出したことも話した

できるだけコミュニケーションを取ろうとした

もちろん、学級委員になったことも話した

いい子であろうとした

それは、親に怒られないようにするため、そして、親を笑顔にしたいため

私は自分がいい子の部分だけは親に話すことができたが、悪い子の部分は話すことができなかった

だから、親はきっと私はいい子だと思っていたんだろう

怒られることはそれほど多くはなかったが、私がどんなことをしても、親は笑顔にはならなかった・・・・

そして、今でも心から笑顔を作っているところは見たことがない

 

そんなのできて当たり前でしょといわんばかりの姿

眉間にしわを寄せて構えている姿・・・・

だから、笑顔を作ろうとすると、ひきつった顔しか覚えていない

 

その気持ちを救ってくれていたのは、祖母の存在だと思う

近くに住んでいた祖母は、毎日のように顔を出してくれた

私が話をすると、満面の笑みで笑顔を作ってくれ、喜んでくれ、ときどきお小遣いもくれた

祖母が私の成長にあたって精神安定剤になってくれていたのは、私が二十歳くらいのときにはすでに気づいていた

小学校3年生は、変則的で、2年生からの持ち上がりだった

だから、クラスメイトもすべて同じ

しかし、私は3年生の担任は好きだった

自分たちの言うことを聞き、理解し、対処してくれていた

そのうえひいきしなかったから

授業もたのしかった

 

そして、3年生から導入されたのが、学級委員・・・・

親からは「立候補しなさい」 「学級委員に立候補しなさい」 とプレッシャーをかけられ続けた

私はやりたくなかったが、私には拒否権はない

拒否をしたら、「どうして、親の言うことがきけないの」 って怒られる

 

小学校の選挙制度は今思えばめちゃくちゃだった

はじめに・・・立候補者を募り、その後、立候補者がいるにも関わらず推薦の候補者をさらに募り、その中から多数決で決めるものだった

私はその後、小学校を卒業するまで、選挙とはそういうものだと思っていた

 

そして、前期選挙・・・私は立候補したが、多数決で落選した

後期選挙も、立候補した そして、私は後期の学級委員になった

 

私は学級委員の仕事がこんなに忙しいとは思わなかった・・・・

その時には月・火・木・金・土・日が習い事、さらに児童会の仕事まで加わった

私はもっと友だちと遊びたかったが、許されなかった

自分から進んで習いたかったわけではない 自分から進んで立候補したわけではない

すべて、親の言われるがままにしなくてはならないという気持ちからだった