野中兼山と現代人 | がんばる地上の星たち!高知と松山のまんなか・仁淀川町

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土佐の山間・仁淀川町(によどがわちょう)の(元)地域支援企画員の日記!

 

 

 

これは↑、江戸初期に山内家家臣の奉行・野中兼山が構築した堰を50年前に災害が起こった時に再整備した「物部川統合堰(別名「町田堰」」である。その受益面積は、今の香南市、南国市、香美市にまたがる約1,422haほどである。旧の6堰を統合して、この堰の形になったのである。堰自体は400年の時空を超えた歴史的活用がある。

 

なぜ、この堰が作られたか?

 

歴史書を読むと、当時は相当にやむを得ない社会事情と背景、産業や民度の低さなどがあったからではと思われます。現代人は当時の状況に身を置いて考えることが大切だと思います。

私もここまでいろいろと調べて、まだ勉強中ですがいくつかの総合的な文献、土佐史談会(今年で創立100周年)の研究資料など一定読みましたところ、この野中兼山の行った各種プロジェクトは、誠に持って私欲無く、当時の時代背景、土佐藩を領し始めた山内家の奉行職としては、かなりの先見の明とその実行力だと思われるところがあります。プロジェクトを考えついても、実際それを実行できることは大変なことです。

知るにつれ、当時から反感や邪魔、他の上士から妨害もあったでしょうに、「なぜ、あれほどの事業ができたのか?」について考えてみた時、その思考・実行力の根幹となる兼山のモチベーションは、”儒学(南学)”の学びが有り、それで人格陶冶され、政治家・実業家としての兼山の思考の背骨、公人としてやるべき使命と責任を学んでいるようです。(その点はもっと詳しく知り研究したいところです。この部分は金子直吉の丁稚奉公時代の質屋で質草の本で独学で学んだ時代と重なるような。)

 

 

幹線的な水路(香南市野市町)


当時、いつでもお家取りつぶしは有り、ろくな政治を実行しないと徳川家から目を付けられるために、一定厳しい政治になるのは当時必然であり、山内家取りつぶしも場合によってはあったそうですから。2代目藩主の山内忠義も必至である。ほぼ二人三脚で土佐の産業振興を行ったのです。

1600年代のほぼ同時代、オランダ、英国、フランス等では競って植民地政策を行っています。それらの国のその後の発展は、はやりその当時の強権を使って他国を攻め、弱肉強食の時代でありますでしょうが、それで国力を高めることになったでしょう。
ですが、兼山の場合は他国は攻めずに、自国土佐で自国民の努力で国力を高めたことは
意義があるのではと思います。

江戸時代初期、土佐藩は当時も相当の農業基盤が整っていなかったための石高不足を
解消するために堰・水路を整備し、各産業も奨励したし、さらに産物もその流通網等(道路)がないので、舟入川と堰をつなげ市内までの交通網を整備し、さらに大阪方面へ輸出することで外貨をかせぐための港を必要な場所に手結港(香南市)、室津港(室戸市)など整備して、産業振興のための川上から川下まで、システム整備したのであり、理論的には粛々とそれを行ったに過ぎないのです。
さらに同時の法律である「掟」も整備して、移住政策などソフト、ハードの両面で。

 

 

 

 

水路の分水点には遺跡として今も使われている「三叉」。これは記念碑である。

 

 


香南市などは江戸初期はまったくの原野で農作物もまったく取れない荒れ地でありました。この時代の工事に携わった郷士、農民こそ大変でした。まさか400年後の現代まで使うことまでは見通せないでしょうから、我々現代人は感謝しきりです。

ですから、一定事業も済んだ頃に、野中兼山が他の上士等から指弾され、政治中枢から外
されたときもほとんど無言で処分・幽閉に応じ、「自分の役割は終わった」と言うことで静かに野中家は没落させられます。(しかし、男系が耐えるまで幽閉したことは相当冤罪に近いのでは。。。。。)
研究者は、伊予の国との国境争いを兼山が沈静化したその手腕、またこれらの土木産業
振興の業績から、その実力を逆に徳川家によって危険視されたために抹殺されたとも言
われます。・・・・これはありえますね。

兼山はプロジェクトの目的がはっきりし、その手段として土木事業等をするしかなかったと
いう当時の産業の超・黎明期にはある一定、当時の封建社会の認める強権を発動し、民を
使わざるを得なかったというやむを得ぬ事情とその対応かと思われます。技術スタッフも有能で有り、家臣・小倉小介親子の頭脳と計算、現場監督の力があったので、このプロジェクトは完成を見たのです。

ある香南市の方の某ブログに、先祖がおよそ四百年前に山内家により長宗我部家臣から百姓身分におとされたが、野中兼山が野市の新田開発と旧長宗我部家臣の慰撫のために立案したいわゆる「百人衆郷士」のひとりとしてわが先祖を取り立てたと。そして当家はふたたび士分をあたえられたと。

と、兼山の新田開発プロジェクトに参加して頑張った我がご先祖を尊敬しておるよう
に思えます。兼山は、この土木事業を行う時に、土佐で初めて、有能な長宗我部遺臣を郷士(侍)として改めて100人ほど取り立て、各々3~5haの土地と地域の監督権を与え、事業を効率的に行ったといいます。このあたりもある意味、やみくもでなくマネジメント力かなあと。今でも当時掘られた各水路名には「近藤溝」「野村溝」とかの郷士の名が残っていまも使用しています。

基本的に野中兼山等の山内家家臣は高知城下に住んでいたので、郡部の香南市や南国市民は多くは基本、前時代(戦国時代)の土佐の覇者・長宗我部家の遺臣であり、農民同等で
の下級武士たちだった。坂本龍馬と同じ土佐土着の民である。その踏みにじられた人生が土佐人のパワーに繋がっているとも言えますね。

この物部川の堰・水路工事の本当の偉業、その立役者は今の香南市民等のご先祖様たち
なのではないでしょうか!現

代人はそれを今、忘れつつあります。そこに誇りを感じることができるきっかけが、何か探さなければ。。。。それが私の今の支援活動の本質です。その上で、市民が未来に目を向ければ、あとは自然と考えて行動すると思います。

このようなプロジェクト・マネジメントの推進には、その根幹となる基本的な背骨となる考えがいるので、その考えと合理的なストーリーを一気に兼山がやったことは、作家・司馬遼太郎が、坂本龍馬を「幕末の奇蹟」と言ったように、野中兼山はある意味、土佐・山内藩政時代初期に現れた奇蹟であったように思えます。龍馬とおなじくわりと短い人生でしたが、その人生は”前のめり”の人生でした。当時の土佐を100年以上の先を見てマネジメントしたと言えるのではと思います。100年どころか、いまでは400年経過してますが。

県内で多くの兼山ゆかりの場所、地域で野中兼山顕彰が行われて、また研究されています
が、この香南市ではその機運が相当低いのが気になります。

 

ですが、小学校現場では地道に香南市が副読本でその偉業を学んでいるのが光明です。この動きは県内に広がっています。

 

 

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