「昭和の日」をちょっと想う | がんばる地上の星たち!高知と松山のまんなか・仁淀川町

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土佐の山間・仁淀川町(によどがわちょう)の(元)地域支援企画員の日記!

今日4月29日は昭和天皇誕生日であったことから

昭和の日

である。 

昭和のことを考える一日にしようなんてどこかに書いてありましたが、そうしよう。

 

私は20歳までは昭和だったのであるからして、その少年時代はまさに昭和の時代そのものだった。

 

小学生時代の遊びと言えば、「ビー玉」だった。これは相当流行った。毎日、ビー玉を学校へ持っていき、そこで友達たちと競い合う。シンプルなビー玉の取り合いサバイバルだったっけ。そこにはルールがあった。自宅でよく練習をしたものであった。

「缶けり」も楽しかったな。オニはつらいが、隠れながらの缶を蹴る瞬間は快感である♪それと、「ドッチボール」はかなり得意だった。

「草野球」というか、神社での変則三角ベース野球は、独自のルールで1対1でもできる野球だった。高校野球になぞらえてチーム名を勝手に名乗り(PLとか高知商業とか、桐生高校とか)、点数を競い合った。ちょっとした野球異空間だった。

 

「漫画」も面白かった時代だった。今読んでも面白い漫画は、やはり昭和であると思う。”釣りキチ三平”で釣りを覚え、川に海に釣りの創意工夫を学んだものである。”ドカベン”で野球ルールと人生を学んだ気がする(笑)”あしたのジョー”で人生の悲哀を感じ、”がんばれ元気”で不屈の闘志と明るさ、ひたむきさを学んだのである。”ブラックジャック”は法外な値の手術費を取るがそれも上回る愛情があったのである。”俺は鉄兵”も相当好きで何度も読み返した。勇気をもらえる作品であると思う。その他に多くに人生を学んだ漫画作品群が昭和時代にはあった、確かにあった。

 

私はゲームも当時、相当好きであった。今でこそしなくなったが。しかし、小学校時代に流行ったインベーダーゲームにはハマらなかった。多分、その時には釣りや野球、ビー玉に熱中していたかもしれないが、第一、あんなお金のかかるアーケードゲームは視野の外であった。でも次に登場して来た「ゲームウォッチ」は白黒のアクションゲームなどがあるファミコンの前身みたいなもので、コイツは中学時代に相当やった。高校生になるとファミコンが登場し、友人宅でゼビウス、スーパーマリオを見て体験した衝撃は忘れない♪以後は勉強の合間にゲーマーとして生きた(笑)しかし、ドラクエは4くらいまでしかしていないもののRPGは好きな方だ。DQ2はまさに地獄の苦しみがあったが(笑)しかし初めて買ったゲームはあの高橋名人が連射していたハドソンの「スターフォース」だった。いまだに音楽を良く覚えている。まあとにかく、一生懸命遊んだ記憶ありありの昭和時代である。

 

 

 そう、私の小学校の校舎はなんとオール木造だった。うすい肌色っぽい2階建てというやつであった。2階に1年生から6年生までの各一部屋の合計6部屋だったのであった。全校生徒数も150人ほどしかいなかったから、たいていに人は知っているし、だれの兄弟とかそういった情報も基本共有してたような気がする。私が何年生のころか忘れたが、上履きのクツは”ワラジ”を履いていた記憶がある。たぶんこれは、昔の文化を伝えようと夏休みかなんかに地域の方と一緒にワラジを作って以来、実際は履いてみようと学校で取り組んだものだろう。気持ちのいい、木造学校だったが、その2年後くらいに今の新校舎になった。そういえば、僕らの作ったタイムカプセル(裏庭当たりに埋めた)はどうなったのか、未だにわからない。

 

 

昭和50年代から60年代初頭までの10代が私の濃い昭和時代であった。その時には中学野球もみっちりやり込んだ時期であり、片思いもしたし、受験しその後の勉学もあった。ちょっとした修業時代であり、昭和を楽しんだ時代でもあった。

 

今後はこれまで以上に昭和前半、とくに戦前・戦後を学びたいのである。昭和史である。その世界史をも含むものを知りたいと思います。すこしづつですが。

 

 

 

昭和と言えば、鈴木商店は昭和2年に破綻した。(下記胸像は、仁淀川町の「しもなの郷」所蔵)

そして、金子直吉さんは昭和19年に没したのである。まさに昭和に沈んだのであるが、その破綻から借金を返し、企業は現代に多く残り現代でも活躍している。直吉が育てた企業人、企業家精神も同様にその後、政財界で活躍したことはいまさら言う必要がないほどである。

 

 

 

 

 

 

SEE YOU!