金子直吉ストーリー7/日米船鉄交換 | がんばる地上の星たち!高知と松山のまんなか・仁淀川町

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土佐の山間・仁淀川町(によどがわちょう)の(元)地域支援企画員の日記!

さて、数ヶ月ぶりになりますが (;´▽`A``

土佐が産んだ財界のナポレオン
明治、大正、昭和を生きた
史上最大の仕事師とも言われた
鈴木商店の大番頭
金子直吉
さんのことを書いていくブログシリーズです。



直吉さんの紹介を以下にしておきます。

慶応2年(1866年)、高知県吾川郡仁淀川町(旧名野川村)で商家の子として生まれ、丁稚奉公から身を起こし、神戸・鈴木商店の「大番頭」として大正時代には三井・三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ、財界のナポレオンとも言われ、鈴木商店を世界的な「総合商社」にまでした実質的な経営者でありました。昭和2年の金融恐慌で市場から退陣していますが、「帝人」や「神戸製鋼」など、多くの企業群は現在でも第一線で活躍しています。

また、金子直吉は、そうした数多くの企業を創業する一方、私財を費やして多くの企業人を育成し、さらに、比類なき主家に対する忠誠心の高さや私生活における無欲恬淡な人でもあり、彼の企業者活動は高く評価されています。




今回の話題は

日米船鉄交換
がある。

大正6年(1917)4月、米国がドイツに宣戦布告し
同年、米国は鋼材輸出を禁止、また、英国も同じ措置を
とった。
つまり、日本には鉄はないから、鉄不足に陥る。
鉄不足は深刻化し、財界の大物や政府も動くがどうにもならない。
鉄不足は高騰に継ぐ、高騰を招いていく。

金子直吉は直接、米国の日本国大使モリスと談判する。
1年あまりも関係機関等が続けて来たこの交渉だったのだが、その
決着は直吉の登場でカタがついたのである。

日本は造船会社も船を造るには鉄がいる。米国は戦争で船がいる。
「代金は鉄で」という直吉の提案にモリスは承諾、
後に米国も承諾するカタチでこの交渉にケリがつくという結末で、
日本造船業など鉄不足は解消されることとなったのである。
発想の転換とでもいう離れ業である。


詳しくは多くの著書をお読み頂くとその顛末のすごさに仰天である。


ご興味ある方へおすすめは、このリンクにある本とかがいいいですね。
金子直吉(鈴木商店)本


ネットでは鈴木商店記念館が最高にいい!

SEE YOU!