武田勝頼土佐落人伝説
名だたる戦国武将・武田信玄の四男であり、甲斐武田家20代当主の「武田勝頼」は、定説では天正10年(西暦1582年)天目山で自害したとされています。
しかし、
仁淀川町に残る影武者説によると、「武田勝頼は織田軍に敗走後、当時の土佐の武将・香宗我部氏を頼ってこの土佐に落ちのび、その後、この大崎村川井(現仁淀川町大崎)に入り、名前を「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と変名し、この地で25年ほど活躍し、慶長14年(西暦1609年)8月25日64歳で逝去し、鳴玉神社に葬られる」とあります。(仁淀川町及び佐川町に残る武田家系図に記録)
また、「武田勝頼」が建立したとされる仁淀川町大崎にある大崎八幡宮には、高野山に奉蔵されている武田勝頼の肖像画に描かれている紋所と同様の花菱家紋入り手鏡が奉納されています。
この「手鏡」
というのがこれである。
鏡中央の花柄模様に注目してほしい。
武田剣花菱家紋付き手鏡!
拡大してみよう
鏡の中央にある模様が肝です。
下の勝頼公の着物にある紋様と同じ剣花菱である。
それをトレースしたのがこれである。
武田勝頼土佐の会の
シンボルとなったのである。
SEE YOU!