金子直吉 さん
とは、
慶応2年(1866年)、高知県吾川郡仁淀川町(旧名野川村)で商家の子として生まれ、丁稚奉公から身を起こし、神戸・鈴木商店の「大番頭」として大正時代には三井・三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ、財界のナポレオンとも言われ、鈴木商店を世界的な「総合商社」にまでした実質的な経営者でありました。昭和2年の金融恐慌で市場から退陣していますが、「帝人」や「神戸製鋼」など、多くの企業群は現在でも第一線で活躍しています。
また、金子直吉は、そうした数多くの企業を創業する一方、私財を費やして多くの企業人を育成し、さらに、比類なき主家に対する忠誠心の高さや私生活における無欲恬淡な人でもあり、彼の企業者活動は高く評価されています。
土佐を代表する商人の一人で、小さな神戸の砂糖商を世界的な企業へとのし上げた人物です!
幼少時は、この高知市に移り住み、丁稚奉公をしながら過ごしたという。
この日、金子直吉さんを研究している鍋島さんたちと直吉ゆかりの地を巡ったのだ。
この方は作家さんで、現在、金子直吉の偉業について執筆中なのである。わお!!
ここは、旧の呼び名でいうところの「乗出」(のりだし)というところで、この辺りの長屋に住んでいたという。
貧乏のどん底で、小学校も行けず、丁稚奉公に精を出す日々であったという。
ここは、高知市の上町、つまり、龍馬の生まれた町として有名なエリアだ。
この辺りにのちの金子家の屋敷があったという。もちろん、直吉が大成したあとのこと。
母であるタミさん、弟の楠馬さんたちが住んでいたという。
いわゆる商人の町である。「金子橋」という橋もあるという。
「水通町」の名の通り、水路があり、これはかつて、かなり厳しく土佐藩から御触れがあるためか、キレイに保たれた上水道なのであった。
いまは、かなり汚れてますね ( ̄_ ̄ i)
また、直吉が鈴木商店に就職するきっかけとなった傍士質店は、この農人町にあった。
この質屋の主人の計らいで、質草の本で独学・猛勉強し、多くの知識を身につけていった。
法律をも身に着けた直吉は、にわか起こった傍士質店関係の訴訟にも立ち、海千山千の弁護士相手に勝訴している!
直吉はかなりの才能を認められる。傍士質店の主人は直吉を「この男は土佐には狭すぎる!」とし、商い盛んな神戸の地へ向かわせるのだった。
まさに、直吉飛躍の場所とも言えるのだ。
農人町、ここは古いお店が多い。ある意味、雰囲気がいい。
直吉まちめぐりをやっていて、幕末の志士、自由民権の偉人、さまざまな割拠していたらしい。
土佐のお城下は、なかなか、おもしろいぜよ。
さらに、この日は、金子直吉の末裔、金子さんにもお話を伺うことができた。
直吉さんのお墓もこの高知市筆山にあるのだ。
エピソードなどまた書いていきたいと思います。
まず、土佐人にはぜひ、知ってほしい土佐の偉人
金子直吉さん♪
SEE YOU!