仁淀川町にも幕末の志士の熱きハナシが残っています ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
こいつは伝説ではありませんぜ!
その志士の名は
中島与一郎(輿一郎)という、今の土佐市の生まれである。
中島与一郎とは、天保13年生まれの幕末の志士。
勤王の志を抱き、元治元年、中島作太郎(のちの信行)らと脱藩の途中、伊予(愛媛県)との国境で歩行困難となり、追っ手に責められ、自害したのである。享年23歳。
ここ、仁淀川町の雑誌山の水の峠、ここでそのドラマがあったのである。
遥かに土佐湾が見える。。。。。そうとう、遥か南ですね。。。。
この下の図はその街道を表すのものですが、仁淀川町には大きく伊予の国(愛媛)方面には大きく二つのルートがあったのである。
おそらく、そのルート(街道)通りには脱藩なので行ってない。
旧・池川町史によればこうである。↓
中島与一郎らは、吾川村(現・仁淀川町)大崎の川口を経て、池川分に入り、雑誌山の肩、水の峠を超えるはずであったが、途中当時の名野川村佃手藪の辻番所でとがめられてしまった!
致し方なく、番所役人のひとりを斬り、他を傷つけて関所破りをしてしまったのである。
一行は急いで田村部落より雑誌山を目指し宗津地区を通り、橘ケ藪の上を過ぎる頃、与一郎は足に激しい痛みを覚えた。
痛みをこらえ、同行の二人に助けられて、ようやく「水の峠」(みずのとう)にさしかかったが、与一郎はもはや一歩も歩くことができないほどであった。
与一郎は案ずる二人を先に行かせ、自分は水の峠の大師堂に入って休んでいた。
一方、大崎辻番所は、池川辻番所に急報し、番所では急きょ、民兵を収集して一行の逮捕に向かった!
ようやく大師堂に到着した捕方たちは、与一郎の反抗を恐れて踏み込めず、大師堂ごと荒縄でぐるぐる巻きに縛り上げ、扉の隙間から目つぶし用の灰玉を込めた鉄砲を打ち込んだ!
与一郎は攻め寄る追っ手に「しばし待て、しばし待て」と叫んで同情を求め、理解を得ようとしたが、無知な百姓民兵どもは情け容赦なく、目つぶしを食らわした。
多勢に無勢、力尽きた与一郎は返す力で見事切腹してこと切れたという。。。。。
その時、与一郎23歳、元治元年(1864年)11月24日のことであった。
ここが、その地である!
勤王の志士、中島輿一郎
(与一郎)殉難の地として碑が建つ!
20年以上も前に、土佐市郷土史研究会が建てたものらしい。
こんなところに人知れず、幕末の物語があるのである。
一方、
無事脱藩した中島作太郎はなんと、海援隊に入り、その後の
明治維新後、名前を信行と改称して新政府に出仕。
外国官権判事兵庫県知事を務め、欧州留学をした後神奈川県令を歴任します。また土佐藩出身の板垣退助らが自由民権運動を展開すると自由党副総裁や立憲政党の総理を務めています。
明治17年6月に再婚した妻と共に各地を遊説してまわります。
明治23年の第一回衆議院議員選挙に当選して初代衆議院議長を務め、貴族院勅選議員となりますが、明治32年3月26日54年の生涯を閉じています。
土佐の山間・仁淀川町には様々なストーリーがあります!
これからも、さまざまなストーりーを掘り起し、ツアー化ができるよう頑張っていこうと思います。
歴史に触れる旅にカモンです~ (-^□^-)
毎度、仁淀川町のヒストリーに驚かされるの~!
今月は、山を使ったツアーづくりを行っていきますぜよ♪
トレッキングにいい季節になるからね。
SEE YOU!