わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書)/鈴木 謙介
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CGM、バズ、ソーシャルメディアなど、
消費者をコミュニケーションの受発信者として組み込むことを
模索するコミュニケーション手法が盛んに言われている。


その手法が有効な理由は、
世の中に氾濫する情報量が、
消費可能量よりはるかに多い世の中になったため、
企業の伝えたいことを消費者に知ってもらう(感じてもらう)ために、
①その情報に興味を持ってもらう
 →情報に触れてもらったり、体験したくなる、
  試したくなると思えるキッカケを与える
②頭の中に深く残す
 →わかりやすさ(直観型)、インパクト、体験、参加、共有、トライアル、5感など、
  耳や目からの情報取得だけでなく、体験、感情、情報発信など
  より多くの脳回路を刺激する
ということがより重要になってくるからだ。


そして、CGM、バズ、ソーシャルメディアというのは、
・興味を持った情報を取得し、
・共有する
ことから生まれる。
すなわち、上記①②を満たしている。


それゆえ、今の消費者に対し、
CGM、バズ、ソーシャルメディアを活用したコミュニケーションは重要になるのだ。


では、①の興味をもつ情報とは、どんな情報なのか?
それは若い消費者にとっては、
・自分に身近で、自分に関係のある、自分にとってのリアルな情報
・直観的でわかりやすい情報
・情動的な情報/情動が動かされる情報
になる。
というのも、若い消費者が根源的に求めているのは、
・誰かと(情動的に)つながりたい
・自分の所属するコミュニティから外れない程度に、
 自分を表現したい
こということだからだ。
それゆえ、自分や自分のコミュニティに近い情報や、
人と共有しやすい情動的な情報(かわいい、面白い)や
直感的にわかりやすい情報に興味を持つのだ。
つまり、「自分ゴト化できる情報」や
「人と共有しやすいネタ=情動ネタ、情動体験ネタ、直感的にわかりやすいネタ」が、
若い消費者を捉えるための情報になる。


そして、誰かと(情動的に)つながりたい欲求と、
自分を表現したい欲求から来る、「自分ゴト化できる情報」や
「人と共有しやすいネタ」により興味を喚起されれば、
その情報やネタを発信するところに、能動的にアクセスし、時には参加し、
誰かとつながりたい欲求を満たすために、取得した情報を周りに共有するようになる。
すなわち、バズ、CGMが生まれ、ソーシャルメディアが活性化するのだ。


したがって、氾濫する情報の中で消費者にその情報を見つけてもらい、感じてもらい、
知ってもらい、好意をもってもらうためには、
ターゲットが参加、共有できるような箱があることを前提に、
ターゲットが興味を持ち、人と共有したり、自分を外さない程度に表現するための
情報を提供し、バズを起こし、CGM化、ソーシャルメディアでの活性化が重要なのだ。

日清カップヌードル シーフードヌードルの「貝柱のうた」


http://www.nissinfoods.co.jp/product/cm/show_cm.html?cm_type=B&cm_id=281


カップラーメンという低関与低価格の製品の場合、

競合製品との差別化が難しい。

差別化ができたとしても、競合もすぐに同様のことができたり、

そもそもそのポイントに消費者のニーズがあるかどうか微妙だったりと、

差別化としては弱い。

また、商品購入につながる最も重要な動機である「味」については、

主観的な要素が大いにあるし、

一方的に伝えたところで、あまり信じてもらえない可能性が高い。


そのような製品カテゴリーにおいて大切なのは、

機能や製品特徴を伝えるということだけではなく、

「その製品に興味や親しみをもってもらい、店頭で手にとってもらいやすくする」

ということであろう。

恐らく多くの人がカップラーメンを買うときは、事前に買うものを決めているのではなく、

店頭で決定しているように思う。その時、店頭で製品パッケージをみたときに、

なんとなく手にとってもらえるようにするためには、

店頭より前の段階で製品を知ってもらい、興味や親しみをもってもらい、

頭の片隅に残すということが大切なのである。


なぜなら、店頭で製品を手にとるとき、

何も知らない製品や知っていても興味を喚起されない製品よりは、

事前に知っていて興味を(一瞬でも)持った製品、(ちょっとでも)気になった製品、

心に少なからず残った製品が選ばれやすいと考えるからだ。


それゆえ、カップラーメンの広告では、

興味をもってもらう、親しみを感じてもらうということが重要だと考える。


その点で、日清カップヌードル シーフードヌードルの「貝柱のうた」は、

木村拓哉さんを起用し、頭に残りやすい歌を活用することで、

興味をひきやすく、親しみを持ちやすい内容になっていると考えている。






映画96時間を見た。


http://movies.foxjapan.com/96hours/


96時間で描かれているのは、親が自分の子を守るという強い気持ち。

夫婦関係は崩れても、親が子を愛する気持ち、子が親を愛する気持ちは崩れない。

それが映画で描かれていた家族愛であるように見える。


しかし、子どもをより安全に育てていく可能性を高めるためには、

親子愛だけでなく、夫婦愛があった方が子どもにとっては安心であろうし、

家族だけでなく、地域で子どもを育てるという意識や、

学校で子どもを育てるという意識もあった方が良いと思う。


確かに、親から子へ、そしてその子が親になり、またその子どもへ

というようなつながりさえ担保できれば、人類が繁栄していく上では問題ないように思える。

だが、子どもにとって見れば、自分の愛すべき人同士の仲が悪いという状況は、

自分はどちらの味方になればよいか悩み、ストレスにもなり得る。

それゆえ、親子愛だけでなく、夫婦愛もあった方が子どもの

精神衛生上健全である可能性が高いと思われる。

また、子どもの取り巻く環境である地域や学校というものが、

子どもを大切にし、気にかけ、子どもの学びに役立つ刺激を与え、

子どもが安心して知的好奇心を満たせるような環境であれば、

そうでない環境よりより成長する可能性が高まると思われる。


したがって、子どものためには、親子の絆だけでなく、夫婦の絆、

地域、学校と子どもの絆、全てが大切だと思うのだ。


もちろん、夫婦愛がなければ子どもは育たないというわけではない。

夫婦間に問題があっても、健全に育つ子はたくさんいるであろうし、

逆に親子の絆もあり、夫婦間も問題ない関係にも関わらず、

その子どもが社会的に問題があるような場合もあるであろう。


ここで言いたいのは、より安全に健全に育つ「可能性」が高まるのは、

子どもがどのような環境に置かれている場合かであり、

その仮説の一つとして、親子愛だけでなく、夫婦、地域や学校という環境も

大切なのではないかということである。

それの証明には、データなどでの検証が必要だろうが、

96時間の映画の中で、「わざわざ」生みの親同士の仲が悪いという設定にする必要が

あったのかが不思議なのだ。


現実的に生みの親同士の夫婦愛の継続性は必ずしも望めないので、

親子愛だけは最後の砦として大事にしようという考えが根底にあるのだろうか。