この子の人生を、見届けられたなら・・・。


そんな、言葉で始まる歌がある。


そのとおりで、我が子の健やかな成長を願わない親などないと思っている。

ただ、我が子に対して、「愛情」の押しつけをしてきたという事に気がついた。


休みが取れると、テーマパークに連れていき、「楽しいはずだ」という押しつけ。

夏休みには、海に行き暑い砂浜で・・・・・。

冬には、スノーボードを無理やりやらせて・・・・。

言い換えれば「虐待」だったと思う。


だけど、あの時はそれが正しいと思っていたし、そうしてあげられることに自己満足していた。

自己満足していただけなので楽しかったとかいう思い出などはなく、「行ったなあ・・・。」という記憶だけが残っている。


先日、子供たちと話しているうちに彼らの中にある楽しかった思い出は、ごく当たり前の些細なことだった事実を聞いた。

「保育園の帰りに、オヤツ買ってもらってあそこの公園いったなあ・・・。」

「ザリガニまだいてるかなあ・・・・。」


そう、自分が「親」としてやっていたことは「父親ごっこ」であって、彼らの求める愛情、「父親」との間にはすごい温度差があったのだろう。


普通の機能している家庭ではそのことに早いうちに気づき、調整出来ていたのだろうが、我が家は機能していない家庭の見本のような家庭であった。


我が子を「アダルトチルドレン」と決めつけたいわけではないけれど、余りにもそれに当てはまる事柄が多いので家族の前で「アダルトチルドレン」というのがあるということ。

「あなたたちが求めるとき、答えてやれなかったこと」

家族の間にある温度差をなくしていきたいという話をしてみた。






いつかは家族に対して話をしなければいけないと思っていたのですがなかなか言い出せなくいたのですがいつまでも先延ばしにできない状態になっていたので今夜話しました。


本来ならば「家庭」というものは家族誰がいても一番やすらぎ、癒されているところであるにもかかわらずそれを奪い去ってしまったこと、今まで言いようのない緊張感の中で生活させてしまったこと・・・・。


今まで我慢しながら生きてきてくれて申し訳なかった。あなたたちの心の中にいる生きずらさにもがいているインナーチャイルドに「もう我慢しなくてもいいよ」と伝えて欲しいということ、そしてできることならばその手伝いをさせて欲しいということを伝えたかった。


貧しさというのは、愛を知らないこと。


虚しさというのは、夢を持たないこと。


家族に対して、今までそうしてきたのは紛れも無く自分自身なのだから・・・。



松山千春の曲に、生命(いのち)という曲があります。

生まれ来る子供の成長を祈る親の気持ちがうまく表された曲です。

生きることから逃げるように過ごしていた自分にとってはとても辛い曲でもあります。

思い起こせば、彼らにとって「父親」らしいことなど何一つしていないのですから。
できなかったというべきでしょうか。

運動会だとかあたろ前にあるはずの学校行事の思い出も、ビデオも何もないのです。思い出というよりも記憶が曖昧なんです。

子供たちはこんなに健気にやっているのに、俺と来たら・・・・。
そんな自分が情けなくて子供たちを見ていられずに、校舎の陰に隠れて酒を煽る・・・・・。

家族を威圧していたというか、「独裁者」でしかなかったのです。
狂った頭で、叱りつけるというか訳の分からないコトばかりを言っていたのでしょう。

学校からしてみたら、とんでもない「モンスターペアレント」だったのだろうことは容易に想像がつくだろう、何かにつけて「意見」をいっていたつもりが、今となって考えると理不尽なことをいっていたのだろう。

飲んでいた頃を思い起こすという作業は、「回復」することに大切なプロセスだと分かっているけれどとても苦しみも伴う。

だけれど、家族たちはもっと苦しい毎日過ごしてきたことにも改めて気づかされるのです。

できるだけ時間の許す限り自助グループに顔を出すようにしている。仲間の話をすべて理解しようとか、同行しようとかは思わないけれど、「気づく」ことがあればいいと思いながら参加している。


なかには、ACが理由となり「生きづらさ」を感じながら生きてきて依存症になった仲間の話には「はっと」させられた。


我が子の場合、体に「あざ」が残るような肉体的な虐待はしていないと思っていたのだけれど、3月生まれのクラスでも小さな方だったわが子に対して、必要以上に叱咤激励していたと気づいた、それはまさに耐え難い時間だったと思うようになった。


小さな子供にとって大人はどれほど大きく驚異に感じていただろう、そんな毎日の中でいつも怯えながら過ごしていたのだろうか・・・。



「無力であることを認めた・・・・。」

そこから全てが始まるのでそのことを意識しながら生きていく。

考えてみたら、その通りで何をするにも結果は後からついてきてその結果をどのように理解して受け入れるかってこと。

これから起こりうる良いことも、悪いことも誰にもわからないのでその事柄に付いてどうこう悩んだところで、時間とエネルギーの浪費なんだろう。

どれなら、今自分が抱えている事柄を一つ一つこなしていくほうが大切なこと、そして手に余るものは手放すこと。

「放り出す」ということと「手放す」ということは全く別の意味があって、放り出されたものはどこに、どこまで飛んでいくかわからないので相手もどうすることができないし、運良く受け止めてもらったとしてもその確率はとても低いと思う、だけれども、手放されたものは自分の周りに落ちるしかなくて、落し物として扱われるだろう、そうしたらしめたものだ誰でも落し物を拾ったとき、「なんだろう?」って思うじゃないですか、それって自分に対して気持ちを向けてくれるってことなので相手からも話しかけてきてくれるようになる。

どうしても、依存症って病気を持っていると気持ちもなんだか落ち込みがちになるし、惨めな感情もあるけれど病気は病気として受け入れていこう。