天気雨 -5ページ目

同期

相手がどんな状況だったかを確認せず、

 

感情先行で相手を否定するところから入る。

 

基本的に自分が正しいと思っている。

 

うまくいかないと言い訳する。

 

なぜか自信満々に「これ得意!」と言ってくる。

 

が、正直周りにもっとうまい人がたくさんいる。

 

特筆するほどのレベルでない。

 

そしてうまくいかないとやはり言い訳をする。

 

 

 

…うん、

 

たぶん一番引っかかってるのはこれだ。

 

今まで慎ましい人たちとつるんできたし、

 

絵にしても音楽にしても

 

その道のプロになった友人をみているので

 

そんな中途半端な状態で自信満々になられると

 

滑稽というか

 

なんだか見ていて恥ずかしくなってくる。

 

 

 

 

逆にうらやましいのかもしれない。

 

自信満々に好きなものを「好き」と言い

 

多少の優越感を味わえるものを「得意だ」と言えることが。

 

何年たっても卑屈なままの自分が

 

ここで立ちすくんでいる。

 

終わりかた

苔深い森の奥にある大きな樹の根元に腰かけて、木漏れ日を浴びながら。

あるいは南の暖かい遠浅な海に浸かり、岩礁を背もたれに朝日を眺めながら。

地球に溶け込むように穏やかな死を迎えたい。

誰にも左右されることなく、自分でその時を決められたら、こんなに幸せなことはない。

そんな最期に憧れながら、今日をしゃかりき生きる矛盾。

夏の日に

わからない。

ひとが生きる目的が、次の世代を生み育てることだとしたら。

ただ、生むは「産む」とは限らない。

ずっと先の未来で芽を吹く種をまくことかもしれないし、

ほかの誰かが蒔いた種に水をやることかもしれない。

そのサイクルに関わらない人間の存在する意味とはなんなんだろうか。

そもそも、そのサイクルに関わらない人間がいるのだろうか。

そして、より高次元な意味で、そのサイクルに関われている人間なんて果たしていかほどのものだろうか。


つまるところ、価値観なんて当事者にしかわからない。

信念を持った行動ならばそれもよし。

ただ、人の生き死にについては、直接命のやり取りをしている親と子にしか、それを歪める権利はないと思う。


親から受け継いだ生物的情報をよりよく次の世代に繋げる覚悟があるならば親を裁ち切ればいいし、自分がいなければこの世に存在しなかった子供をどの流れにのせるかは、究極を言えば親の自由だ。


肯定はできない。

ただ理解できなくもない。

きっともっとかんがえないといけないこと。