石川九楊大全 古典編 | sunshineのブログ

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光る君への題字を書かれた根本知さんの講義を受けて以来「書」が気になって仕方なく

ついに、意味不明だった「書」への興味が沸々湧いてきております。

ということで行ってきた、石川九楊展。

 

こういう展覧会が見たかったんです。

今年見た展覧会の中ではダントツトップです。

 

書は文字なのかアートなのか

私の結論は書は現代アートです。

特に石川九楊先生の描かれる文字は一つ一つは判読不明ですが

象形文字のようでいてそうではないけど、なんとなく意味を持っていそうで、

ずっとその文字と対峙したくなりました。

先生の書かれた文字の滲み、重ね、余白、造形から

文字の中に含まれる意味と

現代アートの中に含まれる意味は

表現方法が違うだけだと思いました。

 

根本先生は、今の書道というのは、最初にどんと打つのが定番になっているので

”かな”が書けないとおっしゃてましたが

石川先生の書を見ているとそうだな。

書道の時間に習った

トメ、ハネ、ハライ

いらないんじゃない?書はアートなんだからって思ってしまいました。

 

この絵は

源氏物語の「若菜」を表現した一行書です。

光源氏、女三の宮、柏木、紫の上のそれぞれの心情がさざ波のように表され

時折白波が立っています。

書が抽象的に心の動きをあわらしていました。

 

 

 

 
先生の書があまりに素敵なので
2冊ほど本を購入しました。
ひらがなの美学は変体仮名の勉強にも最適で本当にこの本を買ってよかったと思っています。
何しろアマゾンでは在庫なしの本なんですよ。
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会場パンフレットなどにあった概要です
既成の書的情緒を否定・拒絶してきた九楊が、なぜ古典文学に挑んだのか──。九楊にとって古典への挑戦は新領域への序章でもあった。代表作「歎異抄」「源氏物語」はじめ「李賀詩」「徒然草」「方丈記」「良寛詩」など日本・中国の古典文学を題材に、つねに新たな表現の地平を達成してきた。この時空を超えた壮大な「書の宇宙」を体感ください
 
李賀詩 感諷五首」(五連作のうちの一つ)1992年、360×192cm×五点
「二十にして心すでに朽ちたり」と書いた中国唐代の「夭折の天才詩人」李賀詩の作品。九楊は李賀詩の主題を「涙」ととらえ、東アジア特有の美学であるニジミを過剰なまでに多用し作品化。李賀詩ではこのほか「贈陳商」、「将進酒」などがある。
 

源氏物語五十五帖 椎本」2008年、59×99cm
「源氏を書かないと日本古典文学を書いたことにならない」と九楊は語る。源氏物語五十四帖に、表題だけで本文のない光源氏の死を表わす「雲隠」帖を加え、「源氏物語書巻」と命名し発表。7ヵ月をかけて全五十五帖を書き上げた。「椎本」は当シリーズのなかの一作品。一行一字(いわゆる右行縦書き)で書いた圧倒的な筆蝕の書。

萬葉歌四首」2010年、60×95cm
「萬葉仮名」、つまり漢字を一文字ずつマス目状に萬葉集の世界を表現した作品。精巧に計算された構成と、精緻な筆蝕で一点一画を書き上げた、まさに「モダンアート」のような作品。
 

徒然草No.22」1993年、95×62cm
No.23まである徒然草シリーズの総仕上げにあたる作品。同シリーズはこれまで基本的に横長の紙面に展開されてきたが、ここでは縦長に伸長した紙面のなかに「白い歎異抄」と「黒い歎異抄」を混在させ、狂おしいまでの「逆説」の世界を表現している。

 

方丈記No.5」1988年、109×90cm×二点
コマ割りのなかに物語が展開する表現は、この方丈記シリーズから始まった。絵巻物を意識して、マンガや絵本が一コマずつ進んでいくように、各コマごとに物語が完結しながらも、その物語の世界が次から次へ連綿とつながっていく。

正信偈」2019年、60×95cm
「正信偈」は親鸞の主著「教行信証」のなかの一部。「帰命無量寿如来 南無不可思議光」で始まる「正信偈」は、蓮如の「白骨の御文」とともに浄土宗の法要でなじみ深い。親鸞は一字書くたびに涙を流し、一字一涙の思いで書いたと伝えられる。九楊にとって最新の古典作品