この苦労は
子供たち4人が
無事、
最終学業を終えるまで
途絶えることはなかった。

だからといって
国家、
公共団体から
何らかの援助を受けたわけではない。

また、
当時は今と違って
公的に援助を受けるということは
恥だという観念が、
母は昔気質の考えを
持っていたので
特に強かった。

しかし
私から見た母は
そんなにタフな女ではなかった。

身重の時、
病気の時、
それでも
働くことを中断できなかった母は
いつあの世へ行くかもしれないという恐怖が
私の念頭からは離れなかった。

そうなれば私はいつでも
母の代わりに、
まだ小学・中学性の2人の妹たちを何とか
高校卒業するまでは
背負わなければならないという気持ちを
念頭に置きながらの毎日だった。

中学、高校時代の思い出だ。

廃人同様の父と、
母が
決定的な別れをつげたのは
私が高校3年の時だった。

母の奮闘は
まだ2人の妹が
高校・大学を卒業するまでは
続けられねばならなかった。


4人兄弟(姉妹)が
最低公立普通高校以上を
無事卒業できたことは
母にとっては
唯一の喜びであり、
ご褒美であったかもしれない。

昼は会社で事務員として普通に働き、
夜からはお好み焼き屋をし、
夜中の12時近くまで働いた。

こういう家族が
戦後無数に
全国にあっただろうことは
想像に難くない。

再び
こういう悲惨なことが起きないことを
戦後の平和憲法を
固く守りながら祈りたい。