私がまだ小学生くらいの頃、
休日に家で掃除機をかけていたときに、
突然掃除機が止まった。
コンセントを差し直しても、スイッチをカチカチやっても、動く気配はない。
父にその旨を伝えると、
「おかしな使い方して、お前が壊したんだ」と、やたら私に当て付けるような言い回しをして譲らなかった。
結果、モーターが焼き付いての寿命だったのだが、確かにかなり使い込んだ古い掃除機だったので、父も渋々納得していた。
掃除機に限らず父は、モノを大事に扱う、几帳面は性格で、ちょっとした故障や傷んだモノなど、修理したり工夫して作り直したりして愛着をもってモノを扱っていたので、私の家には滅多に最新式と呼ばれるモノにお目にかかる機会がなかった。
モノが壊れるとやたらと私のせいにしたがる父の性格は肯定し難いものだが、
モノを大事に扱うという点においては、尊敬に値するものがあって、私自身もそれに習って今に活きている一面がある。
資本主義社会においてはどんどん経済を回していかなければならないので、
万人が私の父のようにモノを大事に扱うようだと経済成長の速度が落ちることになる。
戦後の高度経済成長期には、消費は美徳とまで言われ、
作って、売って、買って、壊れて、また買って……
といった構造が凄い勢いで回っていたと思う。
それに加えて、文明の利器と言われる家電品がどんどん一般化されて、国民の生活も豊かかつ、便利になった。
令和2年、今日の社会に当時ほどの経済成長と勢いがあるかと言えば、ないのは当然だろう。
必要最低限のモノが揃って、不自由をさほど感じなくなれば、生産も消費も落ち着くという原理は、誰が考えても当然の原理だと思う。
現在は、経済は無限に成長し続けなけれは、資本主義が成り立たないと言わんばかりに、無駄なモノが増え、掃除機に限らずいろんなバリエーションで次から次へと新製品が出され、壊れてもいないモノを捨て、新しいモノを買い、結果、廃棄物やゴミが増える。
で、ゴミ問題をはじめとする経済成長が産んだ副産物に対してはあまり関心を持たない。
最近になってマイクロプラスチックとか、石油製品の弊害を問題視し始めてはいるが、未だなお大量生産、大量消費の構造、構図は改善される兆しはない。
私見も含みますが、高度経済成長期から昭和、平成くらいまでは大量生産、大量消費も、ある程度は必要だった一面があるとは思う。
しかし、モノが溢れ、無駄と言うと語弊があるかも知れないが、あってもなくてもさほど困らないモノが増え、最終処理は知らんぷり、では何か方向性が違うのではないかと思う。
率直に言うと、経済成長は右肩上がりでなくとも平行線、安定でよしとするのが理想ではないだろうか?
長い年月で、大量生産、大量消費の資本主義社会が当たり前の社会のように人々の生活様式が出来上がり、それ以外の生き方が時代遅れとか、らしくないといった風潮になり、
競争社会がずっと続けば、社会は崩壊するのではないか。
競争というのはゴールがあるから競争なワケで、ゴールがなければずっと走り続けることになる。
日本人が妙にセカセカした忙しい人種に見えるというのは、そんな風潮、資本主義という社会構造に翻弄されているからでは?
という疑問がある。
加えて、
"衣食足りて礼節を知る"という言葉があるが、表向きの礼節はあっても本来言葉の意味する礼節は、かなり希薄になっているようにも思える。
資本主義という社会構造を見直す時期にあるのでは、という疑問とともに、
今、人々も毎日の生活様式を見直し、考え直す時期にあるのでは?と思います。