「ちょっと私の部屋まで来てくれないか」
所長が耀に声をかけた。
所長が自分ひとりを
名指しで呼ぶなんてことは珍しい。
何事だろうと緊張しながら
所長の部屋へ向かった。
「君は事務所に入って
一年近くになるけれども
仕事には慣れましたか」
所長は一対一で向き合っているのに
視線を合わさずにぽつりと言った。
「最近、職場の雰囲気があまりよくない。
ぎくしゃくしているのは
君もわかっているね」
「そうですね」と耀は返事したが
内心では自分には関係ないし
空気を悪くしているのは
日和田が入ってからの鰐口のふるまいのせいだ
と思っていた。
年長者の鰐口を指導できるのは
所長しかいないのに。
「ちょっとこのことについて
君も考えてみてくれないか」
と言われたが、耀は何を考えるのか
なぜ自分が呼ばれたのかもわからない。
所長は口下手だし
訥々としたしゃべり方をする。
税理士として開業しているのは
すごいと思うのだが
人間関係の調整などは得意ではない。
日和田も「結局、所長は自分を
採用はしたが守ってくれない」
と不満を口にしていた。
一体、鰐口は所長に
何を吹き込んだのだろうかと
耀は疑問に思った。
鰐口は後輩たちには威張り散らしている一方で
所長のご機嫌伺いやヨイショは驚くほどとうまい。
心当たりがあるとすれば
それは最近持ち上がった
事務所の鍵問題だ。
事務所はマンションの一室を利用している。
玄関の鍵は全部で三つある。
一つは所長が持ち
一つは年長者の鰐口が管理し
もう一つは予備の鍵となっている。
この予備の鍵は
残業などで遅くなる人が
所長の承諾を得て貸し出すルールになっていた。
その予備の鍵がどうやら
行方不明になったらしい。
耀の席から離れたところで
鰐口は「鍵がない」と中島と日和田に
切羽詰まった表情で訴えていた。
二人は、どう反応したらいいものか
困惑したような顔で立ち尽くしていた。
(たいした演技力だ)と
耀は内心で舌を巻いた。
(まさか、この鍵の紛失を
自分のせいにしようとでも言うつもりだろうか)
耀には、これが鰐口の
自作自演のお芝居であることは
明白に思えた。
急に事務所の燻蒸を思いついて
実行した時や
日和田の休日出勤に付き合った裏で
彼に関する嘘を周囲に吹聴した一件と
まったく同じ類のものだ。
鰐口はこの鍵紛失の件を所長に報告し
もう一つ予備の鍵を作ってもらったらしい。
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