「僕は、まだもう少しいるから気にしないで。
いつものことだから。
君がお付き合い残業なんてする必要ないからね」
主任に言われて、えり子はようやく帰る気になった。
「それではお言葉に甘えておいとまします」
軽やかな気持ちで執務室を後にした。
マトリョーシカ先輩が
「企画課の人は皆いい人よ」と言っていたが
確かにその言葉は当たっている。
中でも主任は特別かもしれない。
* *
えり子が企画課に来て一か月がたった。
前任者からの引継ぎは終わり
一か月の仕事の流れも一回りこなした。
七月は比較的一年の中で暇な時期。
早く帰れるような時は
さっと切り上げていいのだが
残っている人が多いと何となく帰りづらい。
今日はほとんどの人が出払っているので
心置きなく定時に帰れるということだ。
こんな日はまたとない。
遠慮せずにありがたく恩恵にあずからなくては
もったいないではないか。
久しぶりにアーケード街をぶらついてみようか。
* *
えり子は裏の職員専用の小さな出口から出た。
あたりは既に夕闇が降りていた。
市役所の周りは、銀行や保険会社の
背の高い堂々たるビルが並んでいるが
アーケード街に通じる道は
ビルの谷間の狭い道でひっそりとしている。
動きを止めた穏やかなモノクロの画像が
そこにあった。
まるで誰もいない作り物の世界に
紛れ込んだような感じだ。
いつもの見慣れた灰褐色のビルに
紗がかかっていて
まるで荘厳な幻の遺跡のようだった。
※ 2021年2月~に掲載したものを
修正して再投稿したものです