仕込みの香りがただよう夕刻
中華街の目抜き通りから
一本入った細い道を麗華が歩いていると
表に出ている近所の人が声をかけてくる。
「こんにちは。
今お使いから帰ってきたところよ」
麗華は元気よく答える。
伯父の林百雄が
オーナー兼料理長を務める「らーめん亭」は
中華街の外れにあるが
いつも常連客でにぎわう指折りの人気料理店である。
まだ夜の開店まで時間があるので
麗華は店の裏側の自宅に回った。
玄関の引き戸を開けて
「おばさん。ただいま」
と言いかけて言葉をのみこんだ。
たたきにそろえてある特徴のある靴。
黒いワニ柄の靴。
あの男だ。
また、あの男が来ている。
気づかれる前に二階に上がってしまおうと
こっそりと足音を忍ばせた。
でもこんな時に限って絶妙のタイミングで
階段横の和室のふすまが開いてしまう。
現れたのはやはりメッシュだった。
年は30代と思われるが
前髪の一部分だけが白髪になっているので
麗華と兄の耀はメッシュと呼んでいる。
「じゃあ、考えておいてください」とか
「よろしく」とかそんなことを
聞き取れないほどの小さい声で
ボソボソと男は言った。
おばさんは男の後ろにつき従って
黙ってうなだれていた。
涙をこらえているようにも見えた。
男は麗華に気がつくと
軽く目礼をしただけで黙って通り過ぎる。
麗華も視線を下に落としたままやり過ごした。
昔から出入りしていたあの男は
麗華が小さい頃は
「お嬢さん、こんにちは」だとか
「大きくなりましたね」
などと声をかけていた。
そのたびに伯父夫婦に
「ほら、ちゃんと挨拶なさい」と促されたが
麗華はメッシュが大の苦手だった。
お愛想を言うが、眼も口元も笑っていない。
「お母さんに似ていますね」
などと言われた時にはゾッとした。
自分でさえ、幼いころ亡くなった
母のことはよく覚えていないのに
なぜこの男が知っているのだろう。
母とどんな関係だったのだろうか。
伯父夫婦は大事なお得意さんなんだからと
言っていたけれど、子供心にも
単なるお客さんじゃないことぐらいわかった。
あの男はなぜだか理由はわからないが
この家を見張っていてプレッシャーをかけている。
「黒幕がいるんだ」
兄の耀はそう言った。
「メッシュは単なる手下にすぎない
あいつはボスの指図で動いているだけさ」
その当時の刑事ドラマの影響か
耀は「ボス」という言葉に力をこめて話した。

