《 登場人物 》
岡田めぐみ 主人公 学園のアイドルだったが今はひきこもっている
水田ひろ子 めぐみの女友だち
薄田一郎 めぐみの元クラスメート 彼氏に昇格

私は脇の手すりにつかまりながら階段を降りて
一階の暖かい光のにじんでいる方へと歩いた。
お父さんとお母さんがダイニングで食事をしている。
そこだけがぽうっと明るく見える。
二人は私に気が付き驚いたような顔をした。
「あ~。めぐみ。やっと起きてきたのね。
もう良くなったの」
「今何時だと思っているんだ。遅すぎるぞ」
お父さんは深刻にならないように冗談っぽく
ふざけて言った。
私は耳の調子も悪いのだろうか。
二人の声はくぐもって聞こえにくい。
周波数の合わない放送みたいに遠くに聞こえる。
頭を二、三度横に振った。
私がしゃべる気力もなく椅子に座りこんだので
お母さんは苦笑いした。
「食欲はあるの?何か食べる?」
「うん、いいの。自分でするわ」
私は立ち上がり花柄の電気ポットから
ピーターラビットのマグカップにお湯を注いだ。

しばらくそれで手を温め飲みごろにさました後
少しずつ口に含んだ。
自分の体が自分のものではないような
頭と体が切り離されたような感覚は残ってはいたが
喉をうるおすお湯の温かさで少しずつ溶けていき
耳の感覚も徐々によみがえってきた。
「今日はご飯食べないと思っていたから
めぐみの分作っていなかったわ」
とお母さんは言いながらも
「何がいいかしら」と残りご飯で雑炊を作ってくれた。

卵を落としてネギや刻みのりを散らした簡単なもので
それだけでは物足りなかったので
自分でリンゴをすりおろし
レモン汁を絞ったものをデザートとして食べた。
お腹が満たされると人心地ついて
私は壁にかかった時計を見上げた。
七時。
薄田君が電話をかけてくるのは、だいたい八時過ぎだ。
三日に一回の割合でかかってくる。
正直言って、彼の長話にはどうでもいいものが
多くうんざりする事もあるが
今日かかってきたらうれしい。
自分からかける気力はないけれど
かかってきたら話の相槌を打つことはできる。
こんな日にかけてきてくれたらいいのに。
九時まで起きて待っていたが、電話はかかってこなかった。
まあ、いい。明日はきっとよくなっている。
しばらく飲んでいなかった漢方薬を
久しぶりに飲んだ。
良薬だと勧められたけれど苦いのが嫌だったのと
体調がよかったので最近はさぼっていた。
水を多く口に含み舌で転がすと
口の中いっぱいに広がった。
苦みと同時に甘みもほんのりと感じる。
-医師の薬のなつかしい晩-
橙色の灯りの下で、中学生の時に暗唱した
北原白秋の「思ひ出」の詩の一節が浮かんだ。
(引用は新漢字を使っています)