私のハマリもの半生記
先日、テニスの心の友(と私は勝手に思っている)、めろんぱんさんのところで、立派なハマリもの半生日記を読み、私も回想してみる事にしました。ではやってみましょう!(注:長いです)
小さいときは引越しが多く(小学校で3回)、友達を作るのがマイブームだったかな…。後はお絵かきと折り紙。ま、これはどこの子も一緒ですね。(先ずは軽く、ジャブからね)
小学三年生で、ある事との運命的な出会いがあります。それは『英語』 私の祖父はドイツ語を、父は英語を操っていたので、なぜか母は兄姉の中で私だけ(彼女が歳をとってからの子なもので)、英語を習わせるようになりました(母はしゃべれませんよ)当時、近所で英語を習っていたのは私だけでした。始めはなんとなく通っていましたが、この英語のクラブでお芝居をやる辺りから面白くなり、まさに英語にハマリました。元々歳の離れた兄姉の影響で、ビートルズをいつも聴いていましたが、それからは意味が知りたくて、洋楽一辺倒になりました。
そして、中学に入ってハマッたのは…(驚かないでくださいよ、そこの皆さん…)
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フリオ・イグレシアス!!!(爆)
当時、同級生の皆がチェッカーズとかに燃えていたのに、私だけフリオ・イグレシアス(笑)なぜフリオ???しかし、アノ頃の友達はこんな私をいじめる事なく、暖かく(?)見守っていてくれたのです、いつかは目が覚めるだろうと…(笑)フリオの自伝記やあらゆる本も、もちろん読破。今でも覚えているのは、フリオの雑誌を学校に持って行き(コワっ)、そうじをサボって(※アノ頃は掃除当番というのがありました)、机の下に男の子を引っ張り込み、彼にフリオの良さをあれこれ植え付けたことです。今思うと、この男の子は我慢づよい子だったと思います。ごめんなさいね○○君…って、名前忘れちゃった(苦笑)
そして、この『フリオ熱』に参った兄はある日、彼の来日をかぎつけ、母と私を来日コンサートに行かせてくれました!別にバックステージにいけるわけでもないのに、この日の為に新しい服を買いに行ったことも覚えています。学校も早退、掃除もサボりで武道館に行ったのは、昨日の事の様に覚えています。もちろんそのコンサートで、ソラでスペイン語の歌を歌えたのは、私だけだったと思います(笑)今でも実家に帰ると、当時の友達からは『Schatziのフリオ熱』と、よく話題に登ります(苦笑)
そのうち、やはりスペイン語は歌えても意味が分からないので、英語の歌に戻りました。中学3年では洋楽の好きな子を発見し、QueenからWHAM!、Whitney Houstonなどなど、カセットを交換したり、とにかく洋楽まっしぐらになりました。
女子高に入ってからはバスケと洋楽に英語。英語は家にいる時はずっと、お風呂の中でもFENを掛けっぱなし。通学時はウォークマンで洋楽ばっかり。英語が耳に入らない間がないほど『英語漬け』の毎日でした。高校3年でクラブ活動がなくなると、ヒマを持て余し、洋楽の『訳』を始めました。CDをレンタルする時に歌詞をコピーし、その『翻訳家』達が訳したものを見ずに、自分なりに訳詞をつけて遊んでいました。これ、最近までファイルが手元にありましたが、処分してしまいました。凄い数でしたヮ。
そしてその後、2年間の学生時代も、もちろんそのまま英語&洋楽命。そして、日々のバイト代はすべて外タレコンサートへつぎ込み、一人『私は外タレのインタヴュアーになる!』と決め込んでいました。音楽誌も隅から隅まで読み(※アノ頃はネットはなかったので、なんでも読んで頭に入れてましたね)、いつでも誰にでもインタヴューが出来るほど、外タレの生い立ちを丸暗記して、準備万端でした。交友関係も、洋楽ファンから音楽事務所の人まで幅が広がり、私は音楽で仕事をしていく!と信じて疑いませんでした。
しかし結婚、出産。計算は夢に終わりました…。結婚してからは、義母の影響もあって、刺繍にハマり、数多くの作品を仕上げました。小学生の時、放課後祖母に預けられていて、彼女とした裁縫や刺繍が懐かしかった(祖母は着物を縫う先生でした)…というのもありますね。しかし、ドイツに引っ越した辺りから、またドイツ語習得という「語学オタク熱」が出始めました。夫が帰宅すると、暗い明かりの元でひたすら勉強する私をみてビックリしたと、後になって聞かされました。
この時期、ドイツ語と一緒にハマったのが料理。まだネット発達の前だったので、ネットに気が散らされる事なく、料理の基礎中の基礎に没頭しました。コンソメは自分で、冬は酒粕を母に送ってもらい、魚の切り身を漬け込んだり、ぬか漬けを作ったり、フレンチ、和食、中華まで、あらゆるものを作りました。ケーキなどのスウィーツも、同じものを毎日3回作り、レシピを自分のモノにするまで作りました。ロンドンのレストランで働いている友達を訪ね、そこでコックの友達皆と料理のコラボなんて事もしました。料理も音楽と同様、友の輪が広がる要素がありますね。
和菓子も、季節毎によく作りました。母が乾燥ヨモギの葉を送ってくれれば草もちを、和菓子屋さんから、桜の葉の塩漬けを束で仕入れてくれれば桜餅を作り、日本人の友達をもてなしていました。ある時、『だんご三兄弟』という歌が流行った時、娘が『戸棚の中でだんごが硬くなる…』というシチュエーションが分からなかったので、だんごを作り、戸棚に入れて次の日に硬くなる…というのを見せたこともありました。後は水彩&アクリル画。家ではデッサン、週一で貸しアトリエに行って、絵を描いていました。あの頃はクリエイティブで、マメだったなぁ…
と、ドイツ生活の半分は、語学と料理にどっぷりの生活をしていました。その内、3人目の出産を済ませた辺りから、テニスをする事にハマり、アメリカに来てからは、テニスのTV観戦にハマリまくっています。
私の場合、ハマリモノには言葉が切っても切れない感じですね。それと、何かをする事にハマるタイプで、モノを集めるタイプではないですね(これはめろんぱんさんと同じだわ)
そういえば、英語にハマっていた私ですが、アメリカで生活したいっ!とはまったく思っていませんでした。しかも、英語圏以外の人と結婚してるし。結局のところ、いろいろな「言語」に魅せられたんだとおもいます。人生、何が起こるかホントに分かりませんね~。次は何にハマるんだろうか??
長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。
小さいときは引越しが多く(小学校で3回)、友達を作るのがマイブームだったかな…。後はお絵かきと折り紙。ま、これはどこの子も一緒ですね。(先ずは軽く、ジャブからね)
小学三年生で、ある事との運命的な出会いがあります。それは『英語』 私の祖父はドイツ語を、父は英語を操っていたので、なぜか母は兄姉の中で私だけ(彼女が歳をとってからの子なもので)、英語を習わせるようになりました(母はしゃべれませんよ)当時、近所で英語を習っていたのは私だけでした。始めはなんとなく通っていましたが、この英語のクラブでお芝居をやる辺りから面白くなり、まさに英語にハマリました。元々歳の離れた兄姉の影響で、ビートルズをいつも聴いていましたが、それからは意味が知りたくて、洋楽一辺倒になりました。
そして、中学に入ってハマッたのは…(驚かないでくださいよ、そこの皆さん…)
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フリオ・イグレシアス!!!(爆)
当時、同級生の皆がチェッカーズとかに燃えていたのに、私だけフリオ・イグレシアス(笑)なぜフリオ???しかし、アノ頃の友達はこんな私をいじめる事なく、暖かく(?)見守っていてくれたのです、いつかは目が覚めるだろうと…(笑)フリオの自伝記やあらゆる本も、もちろん読破。今でも覚えているのは、フリオの雑誌を学校に持って行き(コワっ)、そうじをサボって(※アノ頃は掃除当番というのがありました)、机の下に男の子を引っ張り込み、彼にフリオの良さをあれこれ植え付けたことです。今思うと、この男の子は我慢づよい子だったと思います。ごめんなさいね○○君…って、名前忘れちゃった(苦笑)
そして、この『フリオ熱』に参った兄はある日、彼の来日をかぎつけ、母と私を来日コンサートに行かせてくれました!別にバックステージにいけるわけでもないのに、この日の為に新しい服を買いに行ったことも覚えています。学校も早退、掃除もサボりで武道館に行ったのは、昨日の事の様に覚えています。もちろんそのコンサートで、ソラでスペイン語の歌を歌えたのは、私だけだったと思います(笑)今でも実家に帰ると、当時の友達からは『Schatziのフリオ熱』と、よく話題に登ります(苦笑)
そのうち、やはりスペイン語は歌えても意味が分からないので、英語の歌に戻りました。中学3年では洋楽の好きな子を発見し、QueenからWHAM!、Whitney Houstonなどなど、カセットを交換したり、とにかく洋楽まっしぐらになりました。
女子高に入ってからはバスケと洋楽に英語。英語は家にいる時はずっと、お風呂の中でもFENを掛けっぱなし。通学時はウォークマンで洋楽ばっかり。英語が耳に入らない間がないほど『英語漬け』の毎日でした。高校3年でクラブ活動がなくなると、ヒマを持て余し、洋楽の『訳』を始めました。CDをレンタルする時に歌詞をコピーし、その『翻訳家』達が訳したものを見ずに、自分なりに訳詞をつけて遊んでいました。これ、最近までファイルが手元にありましたが、処分してしまいました。凄い数でしたヮ。
そしてその後、2年間の学生時代も、もちろんそのまま英語&洋楽命。そして、日々のバイト代はすべて外タレコンサートへつぎ込み、一人『私は外タレのインタヴュアーになる!』と決め込んでいました。音楽誌も隅から隅まで読み(※アノ頃はネットはなかったので、なんでも読んで頭に入れてましたね)、いつでも誰にでもインタヴューが出来るほど、外タレの生い立ちを丸暗記して、準備万端でした。交友関係も、洋楽ファンから音楽事務所の人まで幅が広がり、私は音楽で仕事をしていく!と信じて疑いませんでした。
しかし結婚、出産。計算は夢に終わりました…。結婚してからは、義母の影響もあって、刺繍にハマり、数多くの作品を仕上げました。小学生の時、放課後祖母に預けられていて、彼女とした裁縫や刺繍が懐かしかった(祖母は着物を縫う先生でした)…というのもありますね。しかし、ドイツに引っ越した辺りから、またドイツ語習得という「語学オタク熱」が出始めました。夫が帰宅すると、暗い明かりの元でひたすら勉強する私をみてビックリしたと、後になって聞かされました。
この時期、ドイツ語と一緒にハマったのが料理。まだネット発達の前だったので、ネットに気が散らされる事なく、料理の基礎中の基礎に没頭しました。コンソメは自分で、冬は酒粕を母に送ってもらい、魚の切り身を漬け込んだり、ぬか漬けを作ったり、フレンチ、和食、中華まで、あらゆるものを作りました。ケーキなどのスウィーツも、同じものを毎日3回作り、レシピを自分のモノにするまで作りました。ロンドンのレストランで働いている友達を訪ね、そこでコックの友達皆と料理のコラボなんて事もしました。料理も音楽と同様、友の輪が広がる要素がありますね。
和菓子も、季節毎によく作りました。母が乾燥ヨモギの葉を送ってくれれば草もちを、和菓子屋さんから、桜の葉の塩漬けを束で仕入れてくれれば桜餅を作り、日本人の友達をもてなしていました。ある時、『だんご三兄弟』という歌が流行った時、娘が『戸棚の中でだんごが硬くなる…』というシチュエーションが分からなかったので、だんごを作り、戸棚に入れて次の日に硬くなる…というのを見せたこともありました。後は水彩&アクリル画。家ではデッサン、週一で貸しアトリエに行って、絵を描いていました。あの頃はクリエイティブで、マメだったなぁ…
と、ドイツ生活の半分は、語学と料理にどっぷりの生活をしていました。その内、3人目の出産を済ませた辺りから、テニスをする事にハマり、アメリカに来てからは、テニスのTV観戦にハマリまくっています。
私の場合、ハマリモノには言葉が切っても切れない感じですね。それと、何かをする事にハマるタイプで、モノを集めるタイプではないですね(これはめろんぱんさんと同じだわ)
そういえば、英語にハマっていた私ですが、アメリカで生活したいっ!とはまったく思っていませんでした。しかも、英語圏以外の人と結婚してるし。結局のところ、いろいろな「言語」に魅せられたんだとおもいます。人生、何が起こるかホントに分かりませんね~。次は何にハマるんだろうか??
長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。