うちゅうにはおほしさまやチリやヒトのめにはみえないあんこくのモノやそのほかいろんなものがあります。うちゅうどけいは、どこになにがあろうとヒョコヒョコぴゅーんととんでいきます。ここは1870ねんのパリ。コトバはヒトのこころをありとあらゆるかたちでなぞります。きれいなコトバ もあります。きたないコトバもあります。そのどちらであってもそこにできたかたちはヒトのこころにありうるかたちです。たとえばとてもわるいヒトのつぶやきそうなコトバをつづるとします。それはほかのヒトのよんできもちのよいものではないかもしれない。けれどもたくさんたくさんいるヒトのうちのだれかのこころにありうるかたちです。ロートレアモン。わかものはそのようなかたちをパリのまちでみつけひっしでかきとめたあとなくなりました。
とけいの「びょう」のはりは、「ふん」のはりをよむのをたすけます。たすけているのですから、たすけがないばあいもあります。「びょう」のはりをすてましょうか。とけいの「ふん」のはりは、「じ」のはりをよむのをたすけます。たすけているのですから、「ふん」のはりをすてましょう。さて、とけいの「じ」のはりは、なにをよむのをたすけるでしょうか?「にち」あるいは「ひ」ですね。けれどもほんとうは、「にち」あるいは「ひ」と「じ」のあいだにあるものが、そもそも「とけい」がヒトにとってべんりなものであるりゆうです。なぜならば、「にち」あるいは「ひ」はとけいがなくてもよめるからです。はりのないとけいが、なにもたすけのない、はだかのままのヒトのすがたです。ほんとうのすがたであるといういいかたをするひともいます。こうさぎも、うさぎくんも、カメくんものっていないうちゅうどけい。どこからどこへむかってとんでいくのでしょう?
うでどけいのはりがとつぜんとまってしまうとき、でんちがきれていることがあります。とまっているのが「おかしい」とおもうでしょう?でもとまっていることのほうが「おかしい」ということのはんたいには「おかしくない」ことつまり「あたりまえのようにおもう」ことがあります。この「あたりまえのようにおもう」ということがどういうことであるかということについても、うつくしいあるいはもうしぶんのないせつめいにせいこうしたひとはまだだれもいません。