ところで、この議論は一度外に持ち出してやったことがあります。
すると、キリスト教の前提のない日本の風土の中での感覚では「生の深淵」の深淵は「悟り」だの精神世界での到達領域の話に傾斜するのです。
一般の人間の生と死という地に足のついた話から始めないといけませんね。
ところで、この議論は一度外に持ち出してやったことがあります。
すると、キリスト教の前提のない日本の風土の中での感覚では「生の深淵」の深淵は「悟り」だの精神世界での到達領域の話に傾斜するのです。
一般の人間の生と死という地に足のついた話から始めないといけませんね。
信仰のあり方には、さまざまなタイプがあります。
だいたい、自分自身の信仰のあり方すら、その全貌を把握することはできません。
これを、いろいろと他人の信仰についての言動を知ってみて、比較すると、リアルに人の生の実態があらわになってきます。
わたしの守備範囲には宗教学の教科教育があり、関心があったので、自分なりにさまざまに集めてきました。もっともこれは原因と結果とが逆かも知れません。
生の深淵についての最初の議論は、クローデルの言説に由来するものでした。ここは面倒なので省略します。
師匠対わたしです。
カトリシズムの普遍性に関する意識の持ち方についてであった、とも言えます。
師匠もわたしも生来病弱です。
師匠は、教会のメンバーには「再び生まれ変わったら、病気も障害もない身体に生まれ変わるという言い伝え」を信じている者が多いといいました。
このことは、生の深淵に関する認識にとっては、きわめて大きいことです。
生きるためのよすが、というものが、持つ価値の意味ですね。
走るなんて邪道です。なんたることか。
歩きなさい!
人生歩きから始まります。
あるところに残虐な王と仲の良い二人の若者がいました。
若者の一人が王にとっ捕まって、この若者の命はもう一人の若者がどこかに行って、本当に刻限までにかえって来れるかどうかにかかることとなりました。
そして帰ってきました。もう一人の命は救われました。
こんな話をでっちあげた小説家がいました。共感できませんね。
走ればいいというものではないです。
あるところに陽気な王と仲の良い二人の若者がいました。
若者の一人が王をとっ捕まえて、この王の命はもう一人の若者が競歩のスタイルで二時間歩き続けることができるかどうかにかかることとなりました。
そして一時間と59分歩いたところで、この若者は歩くのをやめてしまいました。
疲れたからです。もう一人の若者は、「君はなんてマイペースな男だ」と喜んでほめてやりました。
終わり。