あなたと向いあって話していて、わたしは、自分の言葉を探すことに精一杯で、あなたが抱えている喜びも哀しみも悩みも掬い損なっていたようです。


でも少しだけ気づいていたことがあって、それは、会話の最中に、私の方が変に安定している側に立つということでした。


私は、修行者ではありますが、何も持たぬ人間で、私を支えるものは自分では良くわかっていなかったのです。


おそらく、それは所属する郷党の世界の力だったのでしょう。


そして、無我が個性を空洞にさせていたことも関係していたのでしょう。


病弱な人間の常に抱えている、ある種のあきらめもそうでしょう。


滅はこれ滅です。


しかし、すべては、今、これからです。

「覚」の前にも「覚」の後にも微笑みや楽しみは不要です。


そして、宗教一般にとっても、微笑みや楽しみは本質にかかわりません。


ある禅家とあるプロテスタントとの対談で、「覚」の先に絶対者が在ってもよいのではないか?という問いかけがなされました。


この問いはすこぶるまずいです。


「覚」は「覚」として絶対的に独立してあります。


絶対者への志向性は、また絶対者からの受容は、「覚」とは別種のプロセスです。