『われと汝』。
ブーバーと西田幾多郎とは読んでおかねばならないでしょう。
「滅」に関して説くと、汝あるいは他者はその死を認める可能性のある対象であり、われ、はその滅を確認することができない対象です。
『われと汝』。
ブーバーと西田幾多郎とは読んでおかねばならないでしょう。
「滅」に関して説くと、汝あるいは他者はその死を認める可能性のある対象であり、われ、はその滅を確認することができない対象です。
人とかかわることで、自分が救われる。
わたしの周囲には2人の佛教の坊主がいました。
2人とも自分の苦しみを修行を通してやがて人々にかかわることに、人々にかかわることができる能力に変化させました。
このプロセスがあるか否かです。
自分のための修行ですね。
しかし、人々のためのという目的がなくては、意味がありません。
修行者が人に相対して、放っておいたということになります。
20代の頃のことです。われながら情けないことです。