「覚」の前にも「覚」の後にも微笑みや楽しみは不要です。


そして、宗教一般にとっても、微笑みや楽しみは本質にかかわりません。


ある禅家とあるプロテスタントとの対談で、「覚」の先に絶対者が在ってもよいのではないか?という問いかけがなされました。


この問いはすこぶるまずいです。


「覚」は「覚」として絶対的に独立してあります。


絶対者への志向性は、また絶対者からの受容は、「覚」とは別種のプロセスです。