ここのところ、自分にとっての大きなイベント「退職」があったので、それをベースに進んできたけど
退職して1ヶ月過ぎ、まだ本格的な就活はしてない今、「ブログを再開した時に綴りたかったこと月間」となるかもしれない。
それは以前にも触れたコレ
その第2弾
今月は父が亡くなってちょうど丸3年にあたることもあって、お目だるい内容になることも覚悟で当時のことの振り返ってみようと思う。
人生には節目があり、またその時期の経験がその後の人生に大きく影響することもある。
以前だと耐えられなかったと思う状況も、今に至る経験があるからこそ大打撃にならずに過ごせることもある。
私にとって、それが父の看取り
いろんな人が関わった分、「相手の立場を考えてみる」
これがどれだけ大切か身に染みて学んだ時期だった。
父は肝臓癌を患い地元の総合病院に通院
その病院が連携している大学病院の専門医が定期的に外来で診察していて、父の担当にもなった。
おかげで大学病院で手術し平穏な生活が続いていたんだけど、経過観察5年経過を目前に癌が再発した。
ちょうど担当の医師の転勤と重なり、新しい先生と今後の治療について決めるよう告げられ2ケ月待機
そして、新しい医師の初診の日
もともと前担当医師に募らせた不満と、耳が遠い父ではなく私を見て話をする医師に腹を立てた父が声を荒げて先生に食って掛かった。
父がそんな一面があることを知っている私以外、みんなが唖然とし、「大学病院の先生に対して失礼な態度をとった患者は悪者」とばかり看護師たちは医師に対して詫びをいれていた。
それ以来、父に対する医師や看護師たちの態度が一変するのは当然のこと
そして、父も「もう病院にはかからず自然に任せる」と言いだした。
ただ、医師も病人を前に無下にするではなく、私とは「最善の方向を模索する」とし、治療の選択肢の説明を受けて、私は病院と父を繋ぐ役目となった。
結局、治る可能性に賭けた新薬治療を選び、経過観察も含めた入院中に骨への転移が見つかる。
そして、1週間の入院を経て帰宅した頃から徐々に足が思うように動かなくなった。
数日後には自力で歩けなくなり、急遽、薬は中止となる。
あれよあれよという間に車椅子生活になった父は病院を拒み始めたけれど、行かない訳にはいかず・・・
なんとか連れて行った先で、またもや先生に悪態をつく。
新薬が原因で足が動かなくなったと思い込んでいる父は「人をモルモット扱いした」と食って掛かる。
新薬だけにどんなことが起こるか分からない、そんなリスクも承諾した上での投薬だったし、病院を怒りの矛先として声を荒げるのは間違っていると身内でさえ分かっていた。
ただ、父の心情を思うと、前回の悪態とは状況が違う。
それを察して寄り添おうとしてくれた若い看護師に「お前に言うてない、先生に言うてる」
そんな問答が続いた時に父が看護師に向かって拳を上げた。
威嚇であることは家族の私は分かるのだけど、もちろんそうはいかない。
周りに取り押さえられ、別室に連れていかれた。
その時に、明らかに父はブラックリストに載った。
それからは、必要最低限、父を病院に連れて行かず、私単独を徹底
病院の系列の訪問介護斡旋で看護師が自宅に来てくれるようになり、介護ヘルパーさん、週一のデイサービスでの入浴介護のプログラムが組まれた。
母は当時から認知症だったけど、ヘルパーさん達の補助、父の話し相手には十分なっており、仕事から帰ってからは私が介護
そんな息切れしながらも何とか過ごす生活が1ヶ月経った頃、夜に父が急に痙攣しはじめた。
急いで救急車を呼んで、数分後には隊員の方が駆けつけてくれて、車の中に運び込まれた。
隊員の方が病院に連絡をとる。
緊急事態の中だけど段取りよく事が運んでるように思えたその時に、電話している隊員の方が戸惑い、「娘さん、ちょっと外へ」と言われた。
そして言われたことが、「病院は、暴力暴言をはかず、病院のルールに従えるか確認しないと受け入れられないと言っていますが」という言葉だった。
「本人には重々伝えて気をつけるので受け入れてほしい」と伝えてもらうと、
直接本人に同意をとるよう病院から言われた隊員が、車内に入り、痙攣している父に同意を求める。
必死で首を縦に振っている父を見ながら悲しみを感じたことは今でも忘れない。
その後、夜間救急だったため、当直の大学病院の若い医師が診察してくれた。
診断は尿道感染
不随になってからは管を通して排尿していたため、さもありなん状況だった。
ただ、まだ20代と思える医師が、数分の診断後に一番に私の身を案じてくれた。
認知症の母との3人家族、通勤で小一時間離れた場所で勤め、帰宅後に介護をしている私に「どう考えても無理されてるでしょう」「何とかしないと娘さんが折れてしまう」
そして、「担当医は何をやってるんですか」とおそらく同僚であろう医師への言葉を発した
病院とケアマネと重々相談しますと言ってその場は終えたのだけど・・・
それまで父の事で精一杯
当然ながら、皆が父のことを中心に話をしてきた中で、私も自分のことを話すなんて出来なかった。
仕事で外来に行けないことがあっても「娘さんが対応するしかないでしょう」と言われてしまう。
そりゃそうです・・・と仕事をやりくりするしかなかった。
変わりゆく父を見ながら、実はしんどくて、心細くて、逃げ出したいくらいの気持ちを抱えていた。
この救急の一件、
医師からしたら何気ないやり取りだったかもしれない。
でも、私にとっては本当に救われた出来事だった。
その後、2週間の入院
病棟では看護師さん達は優しく、父も穏やかに過ごし、
「自宅で終えたい」という父の強い希望のもと、退院後はまた自宅での看取り生活が始まるのだけれど…
相手の境遇を、立場を、気持ちを、どれだけ想像できるか
そして、想像力と、それを言動で表せることが、人を救うこと、報われる状況に近づくこと
それを体感した。
病院からの言葉で悲しい想いをしたけれど、尿道感染で苦しむ父を救ってくれたのも病院であり、
頑なに張りつめていた私を救ってくれたのもその病院の関係者である医師であり、
その後も最期を迎えるまで病院には多々お世話になった。
想像力に救われたと思うのなら、担当医師や、取り巻く看護師たちの立場、それを取りまとめる病院の立場も想像しないといけない。
父の言動は今でいう「カスハラ」に他ならない。
それでも、父に歩み寄ってくれた看護師のように、声を荒げる父の気持ちも想像できれば・・・
まぁ、それが難しくても、荒げるには彼なりの理由があるんだろうと対応の温度をちょっと下げてもらえれば
今の私が持っている「切なく悲しい思い出」とは違うものになっていたかもしれないと思う。
父だけでなく、私へも睨んできた看護師さん達もいた。
医療従事者の方へは、不安な患者と、それを支える家族の気持ちをちょっと汲んでもらえたら・・・と思いながら今でも過ごしてはいる。
ただ、必死で働く立場においては、事務職でもかなり心身に堪えた立場としては、医療に携わる方々の負担は如何ばかりかと頭も下がる。
そんな中で、患者一人一人、その家族にまで配慮しろというのはご立腹な話かもしれない。
きっといろんな視点があり、いろんな意見があり、多様性が活かさせる今
だからこそ、「想像力」が人間関係構築の鍵になるとも思っている。
この「想像力」を働かせると・・・こんな私事の重たい内容のブログ、どうしたもんかなぁ…とも思うのだけど
当時感じたことを3年経って書き記すことは、自分自身が報われて浄化してる気もする。
なので、このブログの存在、ただただ感謝なのです。
(この文末までお付き合いくださった方にも感謝いたします)
