♪京都~大原三千院~♪
という侘しい歌ができたのも建礼門院右京大夫集にある“大原まうで”があるからなんだろう。
大原にいる間、この♪京都~大原三千院~♪というフレーズと共に高校(?もしかして中学だったっけ??)の古文の授業で習った“大原まうで”が頭の中をぐるぐる回って仕方なかった。
<大原まうで 抜粋>
今や夢昔や夢と迷はれていかに思へどうつつとぞなき
あふぎみしむかしの雲のうへの月 かかるみやまのかげぞかなしき
花のにほひ月のひかりにたとへても ひとかたにはあかざりし御おもかげ あらぬかとのみたどらるるに かかる御事をみながら なにのおもひでなき都へ さればなにとてかへるらんと うとましくく心うし
山深くとどめおきぬるわが心 やがてすむべきしるべとをしれ
<サン版大原まうで現代意訳>(くれぐれも試験の解答にしないようにね!超テキトーだから)
今が夢なのか?昔が夢だったのか?と迷うほど、どう考えてもありえない。
かつて仰ぎみた雲の上の方(建礼門院徳子)をこんな山奥でお会いするのは悲しいことだ。
花の美しさ、月の光にたとえてもその一つだけにたとえられなかったほど美しかった方(建礼門院徳子)がその面影もない。そんなお姿のまま何もせず都に帰る自分が疎ましい。
自分の心を残しておくので(建礼門院徳子の)そばにいて導きとなって。
今、大河ドラマで平清盛があるけど(サンは見ていないので違っていたらゴメンナサイ)、この歌が詠まれたのはまさにその時期。
平安時代末期、平清盛の娘、平徳子は高倉天皇に入内し、安徳天皇を生んだ。
高倉天皇は後白河天皇と彼が一番愛した滋子(*)との子ども(因みに滋子は平清盛の妻、時子の異母妹)。
チョット話がややこしくなるから簡単な系図を作ってみる(上手く表示されなかったらごめん)。
平清盛==時子←姉妹→滋子==後白河天皇
↓ ↓
↓ ↓
↓ ↓
徳子=============高倉天皇
↓
↓
↓
安徳天皇
コレだけじゃなく、平徳子は高倉天皇に入内するとき後白河天皇の猶子(箔付けするための養子縁組みたいなもん)となっている。(ちなみに、後白河天皇は法皇だけど話がややこしくなるので天皇で通します)
こんなに姻戚関係を結んでいるのに滋子亡き後、平清盛と後白河天皇の関係は悪化の一方をたどる。
そんななか、高倉天皇と平清盛が相次いで没し、徳子は建礼門院徳子となった。
上の“大原まうで”を詠ったのは、建礼門院右京大夫。
建礼門院徳子に仕えた女性。
あの有名な「平氏にあらずんば人にあらず」発言があった時期にそれも中宮である徳子に仕えていたからこそ壇ノ浦の戦いのあとの彼女は見ていられなかったんだろう。
幼い安徳天皇に「浪の下にも都の候ぞ」といって共に入水した平時子。
徳子も一緒に入水したものの源氏に引き上げられたとも、母時子に「一族の菩提を弔うように」と言われたともいわれている。
確実なのは、生き残った徳子がここ大原の寂光院で安徳天皇と平家の菩提を弔いつつ、ひっそりと歴史の舞台から消えていったということだけ。
やっぱ
♪京都~大原三千院♪
♪恋に疲れた女がひとり~♪
の世界だわ。