不登校は甘えではないと思う | しるくらし。

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学校へ行かない選択。
子どもとの関わりなど。

発達や生きづらさの話しなど。

名古屋市内にて不登校の親の会を開いています。

対話、安心できる温かい場にしていきたいです。

不登校児の親の会で「不登校は甘えた状態だ」みたいなことを言った方がいました。

それを言われた方は主催者だったので、余計に「あれ?」と思ったんですね。

 

その方がどういう意味で甘えた状態だ、といったのか真意はわかりません。

(深く突っ込んで聞けばよかったのですが聞かなかったのです)

後になってからその言葉が引っかかってます。

 

不登校は甘え?

 

私はそうは思わないなー、と。


 

学校へ行かないことはしんどいんじゃないかな、、結構。

子どもは、

自分は甘いんじゃないか?

ちゃんとした大人になれるのか?

みんなは学校へ行ってるのにゲームばっかしてていいのか?

自分はダメな人間なんじゃないか?

親に迷惑かけてる罪悪感等

 

 

自問自答してるんじゃないかな、って思って。

 

学校へ行かない時間的な自由は出来たとしても

心が縛られてることもあります。

 

 

でも自分がなんでこの言葉にこんなに引っかかったのか?

そこに何か大きな自分の縛りがあるような気がしてなりません。

 

その後もやもやしてて、それを言った方に直接聞こうと思ったくらいで。(笑)

 

 

でね、ちょっと冷静になって考えてみました。

 

私は視野が狭くなりがちで、自分が正しいと思ってる。

 

自分と違う意見を聞いたときに心が動くってことは、

そこに何かとらわれがある証拠なんじゃないか、って。

 

甘えた状態といわれたことに私は敏感に反応した。

反してそれに何も感じない人もいるだろう、きっと。

 

私は甘えた状態は良くないと、無意識に思っている。

だから甘えている、と言われたときに反応した。

 

甘えているのは悪で、

頑張っている状態がよし。

 

それが私の価値観なんだと思う。

 

 

だから、甘えている状態、と言われたときに

子どものことを否定された気がして、

同時に、自分が子どもを甘やかしていて、そんな自分を否定された気がしたんだ。

 

だから今回のこの一件は

私が大事に握りしめていた、無意識の価値観に気づくきっかけになったってこと。

 

自分を知る、自分の考えに気づきを得る、必要な出来事だったってこと。

 

心が動くときは、、必ずそこに何かがある。


今回はそれに気づくために私はそこへ行ったんだろう。 

 

もちろんもう、その人に真意を聞く必要もない。

だって、その人はそう思うってだけのことで、みんなが同じ考えのほうが気持ち悪いし。


その方にはその方の経験や、考え方、バックグラウンドがあっての発言だし。


教育に携わってきた方でもひとりの人間であり、実際には親にしかわからない葛藤もあるし、


逆に第三者から見る問題点や親の特徴もありだろう。

 

私はそこへ行く必要がないなら、

もうそこへは行かなくていいと思う。

行ってみたいなら行けばいい。

 

自分が気分良く過ごせるところに自分を連れて行こう。

 

 

自分の心をバロメーターにしよう。

 

 

学校へ行かない、

と一言に行っても、状況だって、親の考え方だってみんな違う。

 

私はこう、ってのがあれば、人がどういおうが関係がないはずなんだけどね。

 

こうやって心が反応するってことは、

分かってほしい、認めてほしい、自分のほうが正しい、って、どこかで戦ってるんだなーなんて思いました。


甘えてるかもねー、だから何?


くらいまで行けたらだいぶ楽になるだろなー、なんてこと思いました。笑