2658 nostalgia | 国内規制適用外

国内規制適用外

日本製輸出仕様と実銃

↓ from bokete  ↓

周りの馬がスピードを落として一着  

 

by  シゲさん

 

 

 

 

 

 

昭和38年 世田谷区

 

車の増え方に道路行政がまったく追いつかず、このような状態がよく発生した。

環状7号線が整備されたのはもう少し後。環状8号線はまだ計画しか存在しなかった時代である。

免許取得希望者が大変に多かった時なので、教習所は殿様商売だった。

教官の態度が極めて悪く、「馬鹿」「間抜け」「お前に教えるのは時間の無駄」「諦めて帰れ!」などの発言が許されていた。

それはドライバーの心理にも影響して、ひとたび免許を取ると運転は乱暴そのものだった。

狭い道でも減速せず、クラクションを鳴らし歩行者を蹴散らしながら走るのがカッコイイとされていたほどだ。

今でも後進国あるいは中国や韓国のドライバーはその運転だと聞く。

 

 

 

亀戸駅前電停 1970年頃

 

電停の意味を知らない人がいると思う。市電停留所のことだ。

昔は歩道橋に案内板が付いていて、右方向が白髭橋、直進が浅草橋と書いてある。左の文字は判読不能だ。

富士銀行(現みずほ銀行)の看板が見える。

 

都電があったのは、おそらくこの辺りだと思う。MIZUHO BANK が見える。

 

近くにスカイツリーがあり、東武鉄道博物館や刀剣博物館などがある。ここは墨田区と台東区の近くでありアメ横にもそう遠くない。昔はこの周辺に町工場がたくさんあって、モデルガンの小部品を製造する会社などがあったはずだ。東京レプリカの組み立て工場やカスタムショップのエジプトもこの近くだった。

この近辺に刀剣を展示する博物館がある。それなら、歴代モデルガンや映画に使われた小道具銃などを見せる博物館があっても良さそうだが、日本にその文化はない。

電柱を撤去したことで都会的雰囲気になった。

ラスベガスの中心部には、アメリカで珍しい歩道橋という物がある。日本との違いは基本的にすべてエスカレーター付きであることだ。

 

 

昔の秋葉原駅。

 

秋葉原電気街。こういった細い路地の中に数多くの店があった。

 

 

タクシーを見ると昭和50年代のようだ。

 

 

 

 

昭和40年代あるいはそれ以降の写真だと思う。子供たちの服装や顔が昔と違う。

 

このような石炭ストーブはいつ頃まであったのだろうか?

安全上の配慮からやがて金網フェンスが置かれるようになり、ストーブ上に物を置くのは良くないとされた。

 

 

1980年代と思われる写真。通称『赤電話』。

 

1952年に運用が開始され、当初は黒だったが翌年から赤電話になった。

正式名称は委託公衆電話。今はその多くが撤去され、特殊簡易公衆電話(ピンク電話)が残るのみだ。

 

 

1982年にICカード対応型が登場した。これは硬貨のみ使用可能なタイプ。

 

1997年、およそ15年ぶりで日本に行った時は電話のかけ方を思い出せず、比較的に高額のテレフォンカードを入れたら、残高があるのにそれきりカードの戻ってこなかった体験がある。

海外で電話を使ったことがある人は知っているが、呼び出し中の音や相手の回線が使用中であることを示す音などが国によって違うため、日本に住んでいない私にとって電話はなかなか難しいものだった。

サンフランシスコは広域にわたって市内局番の415が使える。つまり、隣の市でも局番415は不要で7桁の番号を入力するだけで良かったのである。ところがロスアンゼルスに行ったら常に市外局番を入れる必要があったので戸惑った。携帯電話が激増した現在、今はアメリカにも090などの専用局番があるのだろうか?

 

 

 

 

 

 

これはグリップの短い初期型に見える。

実銃を買い損なったのでTANAKA製を買い、造りの良さに感心した。

 

1960年代後期型。

 

 

本当に、こんな簡単な正論が理解できないバカの集まりだ。

 

 

 

 

アメリカ破壊に熱心な民主党政権。大昔の曲『イマジン』にある「国境などないのが理想」といった考えを今も信奉している。

それなら、税関も入国審査も廃止すれば良い。