死は、胎児が、へその緒と子宮を破って出てくるのと同じです。この制限された世界から、神様から愛される位置に帰っていくのが第二の出生です。それがすなわち死です。それで、第一先祖がいて、第二先祖がいるのです。父母から愛されて生きていたこの世から、無限の父母、永遠の父母である神様の愛の位置を訪ねて行き、神様の懐に抱かれて無限大の生命と愛の関係を結び、愛を空気のように吸いながら永遠に生きられる本郷の地に帰っていくのが人生の道です。ですから、神様から出発したので、このような愛の実権を「私」が持っていくことによって、「私」が神様と同じになるのです。愛を中心として対等な価値を持つようになります。
死は、胎児が、へその緒と子宮を破って出てくるのと同じです。この制限された世界から、神様から愛される位置に帰っていくのが第二の出生です。それがすなわち死です。それで、第一先祖がいて、第二先祖がいるのです。父母から愛されて生きていたこの世から、無限の父母、永遠の父母である神様の愛の位置を訪ねて行き、神様の懐に抱かれて無限大の生命と愛の関係を結び、愛を空気のように吸いながら永遠に生きられる本郷の地に帰っていくのが人生の道です。ですから、神様から出発したので、このような愛の実権を「私」が持っていくことによって、「私」が神様と同じになるのです。愛を中心として対等な価値を持つようになります。
生命と死について考えてみるとき、どちらが強いですか。死より生命が強いですか。生命より死がもっと強いですか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。ですから、み旨を知ったのちには、死ぬべき立場で死ぬことを嫌がってはいけません。死んでこそ復活します。
それでは、聖書で言う死ぬ事とは何を意味するのでしょうか。神様が、永遠の生命を奪うということではありません。堕落世界のサタンの血統を受け継いだ生命を奪うというのです。ですから、み旨の為に死のうという人は生きるということです。
私たちは、霊眼で無形の体を見ることができます。その無形 の体には霊人体の中心があり、その部分が人間の心に該当します。そこが、神様と皆さんが人に知られることなく、思う存分出会える場所です。そのような場所で、神様と皆さんが互いに愛すれば、皆さんからその愛を奪う者は誰もいません。その位置は、縦的な愛の終着点であると同時に、横的な愛の出発点です。