孝子が行く道も違い、忠臣が行く道も違い、聖人が行く道も違い、聖子が行く道も違いますが、すべて一つの系統です。
一つの系統ですが、何が一つの系統なのでしょうか。世の中で父母を愛することは、孝子一代で終わります。忠臣もその一か所だけで終わるのです。しかし、真の愛を中心とすれば、その方向は永遠に残ります。その先祖を中心として立てた基盤があれば、その基盤は、自分の子孫が守ることができないときもいつも残され、その基盤で功を立てれば、そこで積み重なって上がっていくことができます。
ですから、真の愛を中心とする方向性を持って、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を行えば行うほど、そこには発展があるだけで、後退はありません。



人が存在するためには、自分の体から、まず授受の過程を経なければなりません。男性と女性も、相対的要件を備えて、お互いに授受してこそ存在できるのです。もし、男性は女性が必要ないと言い、女性は男性が必要ないと言うなら、百年もたたないうちに、世界はすべて滅んでしまうでしょう。人が存在するためには、つまり授受するためには、相対を必要とするので、今まで男性と女性は、お互いに愛し合って家庭をつくってきたのです。
ですから、愛というものは、授受の力を起こさせるものなのです。それは、男性と女性が授受する作用の力です。したがって、愛という力の母体が生じるためには、授受する作用がなければならず、そのためには、男性と女性が絶対的に必要です。すなわち、相対的要件が必要なのです。



み言を通して、神様と連結されるのです。み言でなければ、神様と連結されません。み言なしには、連結性を見出すことはできません。み言を宣布する実体なくしては、何にもなりません。
神様と人間が連結させるのは、神様の愛に連結されることが目的です。人間を神様と連結させることができるみ言を宣布する人は、地上にいる人ですが、その人の伝えるみ言は、神様のみ言なので、そのみ言で新しい人が作られるのです。