考えてみれば、免許を取得して以来、こんなに長くクルマなしの生活を送るのは初めてだ。
初めのうちは、からっぽのガレージを見る度に「100万掛けても治しておけば良かった」と取り返しの付かない想いをしていたのだが、今となっては、公共交通機関での移動も苦にならなくなっている。
生まれつき「群衆恐怖症」の俺が、満員電車に乗れるようになるとは、いささか自分でも驚きだ。
そして、クルマのない日常に完全に慣れてしまったとき、多分こう言うのだろう。
「東京にクルマは必要ないよ。」と。
俺はそうなる自分が怖かった。
或る夜、行きつけのバーで、バーテンダーがこう聞いてきた。
「新しい『相棒』は見つかりましたか?」
「いや、まだ。」
新しい相棒がなかなか見つからない苛立たしさと、クルマなしの生活が楽になり始めている自分への恐怖から、俺はいささかむっとしながら答えた。
その俺の心を読んだかのように、初老のバーテンダーはにっこり笑ってこう言った。
「待ち人に対しての望みが高すぎるんじゃないですか?」
確かにそうなのかも知れない。
優秀な整備士であるとともに、一流のバイヤーでもある『主治医』にして、未だ俺の希望に沿うクルマを見つけあぐねているのだから。
「でも、お気持ちはよく解りますよ。ワタシたちも同じですから。」
バーテンダーはこう続けた。
「例えばワタシたちが希少なスカッチを探すとき、やはり時間が掛かっても構わないから、その分コンディションの良いものを求めますから。」
「でも、そこで妥協をしてしまうと、結局、壁の花になってしまうんです。最近はお客様の知識と味覚のレベルも相当なもので、こちらが安易に選んだモノはすぐに見透かされてしまうんですね。」
きっと、主治医も同じ心境なのだろう。
そんじょそこらに転がっている『鉄クズ』では、俺が納得しないのを彼は良く知っている。
「でも、待ち人というのは、待たされてこそ幸せな出会いがある、とワタシは思いますけどね。」
曇りひとつないグラスをさらに丁寧に磨きながら、バーテンダーが言ったその時、俺の携帯電話が鳴った。
発信者は『主治医』。
「『待ち人来たり』ですかね。」
そう言うと、初老のバーテンダーは完爾と笑った。

ー続くー