サーキットに着いてからの彼女は、普段と同じ様に明るく振る舞い、むさ苦しい男たちの中で甲斐甲斐しく働いた。
こういう走行会において、ヘルパーの仕事は多岐に渡る。参加者の受付から始まり、走行時間の告知や主催者との連絡係など、所謂雑用がメインだ。
通常、サーキットを自走するにはサーキットライセンスが必要となる。だが、今日のように或る団体が主催し、サーキットを借り切って開催される走行会では、ライセンスを持たない一般人も参加が可能だ。その為、参加者数も多くなり、ヘルパーの仕事も増えることになる。
良く晴れたサーキットのパドックで、彼女は嬉々として走り回る。
思えばこんなに楽しそうな彼女は初めてかも知れない。俺はその様子を横目で見ながら、今朝の車中での出来事を思い出していた。
スピードに対して性的興奮を覚える彼女。確かに「スピード」というものに快感を覚える人間は沢山居る。今日ここに集まっているドライバーたちもその種の人種だ。だがこの人々のうち、一体何人がスピードにより性的絶頂を迎える事ができるだろうか?
不意に肩を叩かれ振り向いた先には、満面の笑顔の主治医が居た。
「お疲れさん。」そう言うと主治医は手に持ったペットボトルを手渡す。
「さすがに暑いな、パドックは。」俺は受け取ったミネラルウォーターを一口含みながら言った。
「ここは風が通らないからな。それにしてもサーキットは久しぶりなんじゃないか?」
過去、俺はアマチュアレーサーとして数々のサーキットを転戦していた。その時のメカニックを担当してくれていたのがこの男だ。
「ああ。この雰囲気、懐かしいな。」鳴り止まぬエンジン音と、オイルの焼ける匂い。
「彼女も気に入ったらしいな、サーキットの匂いを。」ペットボトルをラッパ飲みしながら、主治医が顎で指し示す。そこには、次走順番を待つドライバー達にゼッケンを配る彼女の姿があった。
「彼女、以前にもサーキットに来た事あるんじゃないか?」初めてにしては妙に手慣れた彼女の振る舞いを見ながら、主治医が訊いた。
「俺には初めてだと言っていたけどな。だが本当のところは判らない。」
「ふうん。」主治医はもう一度彼女の姿を一瞥してから、俺に言った。
「どうだ?お前も走ってみるか?」
「次の回に出走予定だったんだが、俺のベレットがこの暑さに少しへたれ気味でな。代わりに出てみないか?」
唐突な主治医の提案に、俺は少しだけ迷う。確かに過去レース活動をしていたが、その場から遠ざかって随分経つ。ブランクは感覚を鈍らせているはずだ。
「まぁ、今日は一般参加の走行会だ。勝ち負けは関係ないんだから、ツーリングでもする積りで行ってこい。」
そう言うと主治医は、自分のヘルメットとグローブを俺に手渡し、パドックの奥へと入って行った。
俺は手渡されたフルフェイスヘルメットをぶら下げ、彼女の許へ歩み寄った。
「あのさ、出走表書き換えて欲しい。」
振り向いた彼女は、俺の持ったヘルメットに気付き「出るの!?」と驚く。
「ああ。主治医がリタイアしたから、そこに割り込むことにしたんだ。」
彼女は俺を見つめにっこり笑いながら「それではこのエントリー票と誓約書に必要事項を書き込んで下さい。」と言った。
その事務的な言葉に苦笑しながら、書類を受け取る俺に彼女は続けた。
「頑張ってね。タイム取っておいてあげるから。」
無言で彼女に頷きながら、俺はパドックにE30を回すため歩き始めた。
ー続くー