俺はパドックに320を乗り入れ、出走の準備を始める。
彼女から渡されたゼッケンを両ドアに貼付け、ヘッドライトとテールランプのレンズに飛散防止のテーピングをする。
今日はあくまでも「走行会」。だから公式戦であるレースとは違い、ホットな走りをする訳ではない。だが、念には念を入れる必要がある。
サーキットでは何が起こるかわからないのだ。
公式戦の場合、クルマの車種や排気量によってカテゴリー分けがされる。つまり、クルマの戦闘力はほぼ互角。あとはドライバーの腕で勝負が決まる。
だが、今日のような走行会では、一緒に出走するクルマはバラバラだ。
或る程度のカテゴリー分けはされるものの、組み合わせによっては、ポルシェとカローラが同時に走るという事も起こりうる。
また、操る人間の側を考えても、サーキット走行に慣れたドライバーもいれば、今日が初体験の者もいる。
そんな諸条件を抱えたクルマが、サーキットの狭く鋭角なコーナーにひしめきあった場合、起こりうるトラブルは容易に想像できるだろう。
俺自身、かつてはサーキットを転戦していた経験があるが、ここ数年は走っていない。
ブランクというものは、体力・感覚・思考全てに影響をもたらす。俺のようなアマチュアのレーシングドライバーにとってすら、ブランクは錆び付きを意味する。
どこか心地よい不安感と軽い興奮を覚えながら、主治医のチームから借りたレーシングスーツに着替えているとき、背後から声を掛けられた。
「E30で出るんですか?」
振り向いた先には、見知らぬ青年が立っていた。
歳は20代後半くらいか。細身ながらがっちりした身体に、SPARCOのレーシングスーツがよく似合っている。
見知らぬドライバーから声を掛けられるというのは、サーキットでは良くある事だ。
ここに集まっているのは、大なり小なりのクルマ好きの人間達。少しでも気になったクルマのオーナーには声をかけ、情報収集を欠かさない。
この男も多分、そういう「同好の士」のひとりなのだろう。
「うん。急に出走が決まってね。」
俺のクルマを覗き込んでいた男は、俺に向き合いにっこりと笑った。
「あ、俺、シノミヤといいます。今朝方は失礼致しました。」
深々と一礼し謝罪する男を見ながら、俺の記憶が繋がる。
今朝、東北道で出会った「S2000」。あのクルマのドライバーがこの男だったのだ。
そして、もうひとつ、俺が驚いたことがあった。
「姉が大変お世話になって・・・ありがとうございます。」
彼女の旧姓は「シノミヤ」。
この男は、彼女の弟なのだ。
そのとき、パドックに向かって歩いてくる彼女に気が付いた。