【バケツの底を抜く】
昨夜は豪雨であった。バケツをひっくり返した、というより、バケツの底が抜けたような雨音であった。目覚めて雨雲レーダー映像を確認すると、雨雲は点のように示されていた。家の前の小川の水量も少し増えた程度で、あふれ出すほどではなかった。上流での雨嵩がさほどでなかったと推量できた。町内のみに狙いを定めた、一点集中の降雨だったのである。これが、これからの雨の降り方なのかもしれない。
【ささやかな釘】
さて、朝日新聞(異論のススメ)に、『曲解された「国富論」 』と題する佐伯啓思の論説が載っている。例によって、論理混交、意図不明な妄言である。うんざりするのだが、朝日新聞が掲載する京大名誉教授のありがたいお説と、その記載の切れ端を大層に振り回す俗人が排出することになると迷惑なので、ひと言釘を刺しておく。
【佐伯のスミス論】
佐伯は次のようにいう。
経済学の父とされるアダム・スミスは、グローバルの父であるかのように語られているが、誤解である。スミスは「労働と生産こそが国富なり」とし、「貨幣こそが国富なり」とする重商主義を否定した。しかしその市場経済論がアメリカにおいて曲解され、「新重商主義」といえる「グローバリズム・イデオロギー」を生みだした。それは「資本主義」を正当化する原理となり、市場の秩序を破壊するに至った。だから、アメリカは日に無理難題を要求する。そこには自由な市場競争や主権国家による経済政策の尊重という「たてまえ」さえ失われている、というものである。
最後に、スミスは公共を重視したと付言し、訓戒たらしめることも忘れない。
【誤解の百貨店】
いっている事に間違いはないようだが、これを紆余曲折しながら語るものだから迷惑な「誤解」を生む事になる。
第一に、スミスはグローバル経済を否定しない。スミスは確かに重商主義を批判したが、他国との経済関係を否定し、縮小、鎖国すべきだなどともいわない。
スミスの関心の第一は「国民経済」にあるのであって、他国への言及はついでである。国境を越える資本や労働の移動を前提とせずに論じている。グローバル経済を「新重商主義」と名付けて、スミスが批判対象としていたかのようにいうのはペテンである。
何より、グローバルは20世紀末からの概念であり、存在を意識されないのだから、スミスが否定するわけもないのである。
【新帝国主義であるにすぎない】
第二に、グローバルとは新帝国主義の言い換えなのであって、元来が秩序や公正を尊重するものではない。「資本の増殖を目指す資本主義」などという概念を持ち出す奇策を弄しなくとも、グローバルはアメリカ以外のすべての秩序を、経済にとどまる事なく破壊せずにおかない。石油支配のためになら、ベネズエラ大統領をとらえ、イラン指導者を爆殺する。それがグローバルの正体である。
【異端としての主流派経済学】
最後に、前言でアメリカ経済学はスミスの正統な後継者ではないと明言しておきながら、後段では「自由な市場競争論を受け継いだはずの米国の市場経済学」が「グローバル経済」を生み出し、「資本主義」の運動が現実を支配しだした、などという。
米国流の経済学は「自由な市場競争論を受け継いでいない」異端なのだから、どんな鬼子をひねり出そうがスミスにも市場経済論にもまったく関係がない。佐伯のいう「資本主義」という概念や、スミスの「重商主義」の概念がでてこないのは当たり前なのである。
【ベッセントへの反論】
ベッセント米財務長官の日本政府に対する圧力には、日銀の独立性を言うならFRBの独立も尊重せよ、日銀の独立性を言うなら日本政府の経済政策も尊重せよ、と反論すべきである。己の言動の矛盾に気がつかない野蛮な人達には、そのようにいうだけで足りる。
もっとも相手は中国と張り合う帝国である。下手に逆らわない、刺激しないで、矛先を向けられないようにする。被害を最小にする事こそが日本の利益である。佐藤優ならそういうだろう。ただし、その様に保身する連中が、誇りを保つ、不満を抱く国民に対しては決まって強圧的となるのだけどね。