【退院と入院の狭間で】

 昨夜は雨だったようだが、今は晴れている。春の風の中を歩いてみたいものだが、相変わらず病室に閉じ込められている。鳥の声も花の香りも感じない。

 抗がん剤が終わり、代わりに1.5リットルの栄養剤の点滴袋が下げられるようになった。食えないからである。配膳する人も諦めて、飲料とかヨーグルトのみを渡してくれるようになった。

 当然に体重は減り、とうとう63キロを切った。食欲は回復している。昨日は持ってきてもらった海苔細巻きを半パック食えたし、夜には空腹を覚え、鰻や焼き肉を妄想したほどだ。しかし病院食は食えない。匂いだけで吐き気がする。これはもう相性としかいいようがない。前回の時もそうだったのだ。

 抗がん剤投与終了後、副作用がなくなってきているのは確かで、頭もそれなりに働くようになった。読書速度も回復している。しかし退院は医師の匙加減一つである。彼らが管理下に置く必要があるとする以上は出ることができない。決定権は彼らにあるのである。問題はそれが、根治治療上必要かどうかに即して行われているかどうかにある。治るなら何ヶ月でも入院する。

 

【いかにも朝日らしい社説】

 4月4日朝日新聞に「遺伝子検査は再考を」という社説がある。ロス五輪の遺伝子検査導入を、五輪精神に反し、人権尊重に逆行すると批判するものだ。批判することで、朝日新聞は女性を重んじ、人権を守護する良い会社であると宣伝したいらしい。

【公平と自由】

 日本の進歩的知識人は、フェミニズムとジェンダーの区別ができない人が多い。なんとなく、男女を同一に待遇するのが女性尊重だと思い込んでいる。性における「公平」と「自由」をごっちゃにしているのだ。

 社会的な機会において、女性と男性の間に格差があってはならない。これまで男尊女卑であったため、どうしても不利に取り扱われることが多い女性への配慮は人間の「公平」のために必要である。

 他方、人間はその発生過程において、ホルモンの段階的作用から脳と肉体が異なる性的傾向を形成してしまうことがある。そのような人に肉体に即して生きろと強制するのではなく、脳に即して「自由」に生きて構わないとする考えがある。かくあるべしなどという決定論が無効な以上、個別具体的な人間がどのように生きるかに制限はない。その一つとして、外見とは異なる性を生きる「自由」がある。

【撃ちてし止まん甲子園】

 五輪とは人間の生き方を問う場なのだろうか。各国が「公平」を実現し、あるいは各人が「自由」に競い合う場なのだろうか。

 高校野球はそれでいいかもしれない。記者は、スポーツと関係のないお涙頂戴の物語を集めて、無理やりプレーに結びつけ、読者を感動させることができる。新聞には好都合かもしれない。かくして各紙の見出しは、先の大戦の戦意高揚の表記と大差ない物々しさとなる。まるで、次の戦争のための予行演習をしているかのようである。

【不自由な五輪】

 五輪は異なる。それは人間の肉体の優劣の争いの場である。男と女では肉体に差があるのが現実だから、男女に分けて競技する。そこにジェンダーの観点を持ち込むのがそもそもの勘違いなのだ。肉体に「自由」などない。生まれ落ちた時に決定されており、その可能性をどのように発展させたかが勝敗につながる。もちろん、薬物を用いて改造する「自由」など認めない。人間の決めたルールのもとで、自分の肉体で競い合うから感動できるのだ。

【余計なお世話】

 「生物学的」に男女を峻別し、それぞれに競わせることこそ最も「公平」な対応となる。そのためには、誤魔化しようのない遺伝子検査は有効である。「草の根スポーツまで波及」する心配があるというが、いったいどこの誰が、町内ソフトボール大会で遺伝子検査を導入しろと言い出すというのだろうか。そういう愚論を嗜め、正していくことこそ草の根の共同体である。記者が自分を草莽とは思っていない故の余計な心配というものである。