【予告編のような地震】
3.11である。昨日午後、あの時の揺れを思い出させる地震があった。突き上げてくるような揺れである。15年前とは異なって、「エヘ、ちょっとね?」という感じで収まってくれたが、いつまでも続くのではないか、さらに強い揺れになるのではないかとの怖れにみまわれた。あの日を思い出せ、である。
【失われた故郷】
さて、メディアは当然に3.11特集である。東京新聞は「いまも4万2000人が福島の故郷に未帰還」との記事を載せているが、何をいいたいのかよく分らない。国と県は避難者数を2万3410人とするが、帰還を諦めた員数を含めないで少なく見せかけている、と批判したいのだろうか。
浪江町の事故直前の人口は約2万1000人だったが、現在は1万1633人となり7000人も減ったとする。しかしそれは、住民登録の数字の比較であって意味がない。今実際に浪江に住んでいる元からの住人は200人程度といわれている。大半は、住民票を置いているだけで忘れない、実際には他市町村に住んでいる。浪江に居る大半は、廃炉工事などの作業員なのだ。伝統的な共同体は、ほぼ消滅している。
【人は流浪する】
2045年には除染土を県外最終処分にする予定である。そのときに3.11以前の浪江の記憶を有するひとがどれだけ居るだろうか。また、除染度が撤去されて更地になった土地に帰りたいと思うひとがどれだけ居るだろうか。ひとは、居住地を先祖のゆかりだけで決めたりしない。そこが安全か、しこたま稼げるか、どこよりも幸福になれるかで決める。首都圏のタワーマンションから丸の内に通勤する人間が、浪江籍を有しているというだけで、すべてを投げ捨てて移住するとはとても考えられない。
【経済的合理性】
朝日新聞は、地権者の「私たちに土地を手放すよう納得させるより、土を持ち出す先を納得させる方がもっと大変だよね」という言を紹介している。その通りである。大金を投じて集めた除染土を、大金をかけて未汚染の土地に動かすなど、愚の骨頂というべきである。
浪江が、文化的共同体として、昔のままに復活することはもう無い。そこに町が形成されるとしたら、東電や土建屋の社員など、3.11以前とはまったく異なる人達によってなのだ。彼らも、少しでも安全な場所にと居を構えるだろう。中間貯蔵施設のあった場所に好んで住みたいなどと思いもしないだろう。汚染土を県外に移動させても、広大な空き地が出現するだけなのだ。だったら、中間貯蔵施設を最終処分地にする方がよほど経済的ではないか。
【無住の地となる】
浪江の人々には「先祖が守ってきた土地を私の代で売ってしまっていいのか」との土地への愛着があるという。しかし個人的な執着心を満足させるために、巨額の金を投ずることは妥当なのだろうか。日本の国力はもはや、そのような感傷に付き合うほどの余裕はない。第一、浪江や大熊の人たちは、町が消滅する怖れと共に原発誘致を認めたのではないか。
全国で再稼働させている原発地帯の住民は、事故が起きれば双葉地方のようになると認知するべきである。交付金は、その覚悟無しにもらうべきではない。
チェルノブエリでは、より広範な地域が無住の地なり、原始に回帰している。それが人間の愚行の当然の帰結なのである。
【眠れない夜】
昨夜も3時ごろに目が覚め、5時半から30分ほどうとうとするだけだった。これまでは、夜中に目が覚めても、本を少し読むとすぐに睡魔が降りてきたのだが、なかなかそうならない。それだけ、心が乱れているのかもしれない。
体調も良くない。喉だけでなく、首や肩にも違和感がある。唇の口内炎の痛みはなかなか取れない。おいおい、まさか天衣じゃないだろうななどと勘繰って、また緊張してしまう。
それでも、昼食は久しぶりに外食をし、一人前を食べ切ることができた。駅前の珍満麺である。スープを丁寧に掬い、具や麺をゆっくりと咀嚼して呑み込んだ。やはり、最後かと思いながらである。