【朝顔の花咲く頃】
朝顔が咲いた。あの青い色を見ると、条件反射的にラジオ体操にいかなければと反応する世代である。しかし現実には、汗を拭きつつお茶をがぶ飲みするだけ。朝から暑い。こんなときに身体を動かしたら熱中症で倒れるかも、などと誰にともなく言い訳しながらである。
【地図なき山】
さて、角幡唯介の『地図なき山』を読んだ。はじめは地図なしにこだわるのに、食料は完全自給でない。渓流の魚を釣りつつも米やラーメンを持ち込んでいる、単独山行は自己欺瞞ではないか、などと読んでいたのだが、そのうちにその独特のこだわりが理解できた。角幡は「脱システム」というが、「脱構築」なのである。地図なき山で『私たちの耳は聞こえているか』を確認している。己の生の確認なのである。
【地図付き山】
対照的なのは山岳部の登山である。正確に地図を読み、正確に気象図を描き、正確に時間配分する。そのようにする前提で計画を立て、その通りに移動する。それが正しいとされる。賞賛される。
軍事行動の訓練には有効である。敵よりも速く、正確に移動することで、最も有利な攻撃地点を掌握できる。正確さと体力は、勝つため、生き残るために不可欠なのだ。
【地図の中の世界】
それは、地図という他人の形成した世界をなぞっているだけである。花も鳥も景色も、山にあるもの全てが夾雑物である。そこにある何も見ていないし感じていない。喜びは顧みられないし、何かを生産するということもない。熊を追うこともないし、オヤこんなところに金鉱があるぞなどと気付くこともない。目的地への「移動」があるだけなのだ。
【地図の外に求めるもの】
角幡は手に水流を感じることで「水」という言葉を理解するように、沢登りをすることで「山」を体感しようとしている。五蘊を介して外界を感じ、抽象化し、記号化する。すなわち言語化する。それは己の「生」を理解することでもある。そのためには、他人の「言葉」の集大成である地図は無用どころか、邪魔でしか過ぎない。
人間は世界に単独で存在しているのではない。草やキノコ、魚や鳥、獣とともにある。「他人」もそうである。そしてそれらの「外界」の存在は地図に落とし込めるようなものではない。経験からある程度の蓋然性を認識できるようになったとしても、究極的には偶発的に直面するしかない。たとえば、ここで魚が釣れるとガイドブックに書いてあったのに全く釣れないから食い物がなくなって遭難した。悪いのは俺じゃないといってみても無意味なだけである。真に必要なのは、試行錯誤しながら、何が何でも魚をとらえようとする柔軟性なのだ。
【正確な生き方】
ただ、人間社会で生きていくのに必要なのは「地図」的な形式論理である。書かれたものを蓄積し、抜粋し、組み建て直して発信する。それが能力とされ、その点において評価される。他人を納得させることが肝要なのでり、問題解決や人間の幸福など関心の外である。『山なき地図』が全て、でかまわないのだ。AIがお得意な「正確」とはそういうことである。しかしそれは、眼の前にヒグマが出現したりすると、あっけなくなぎ倒される力でしかない。
【社会というもう一つの目隠し】
ただ角幡もやがて、単独行からフライデイ山内と連れ立つようになり、遭遇する他人の言動に影響されるようになる。原初的な社会を形成しての山行になるのだ。そこにはやがて人間関係の「正しさ」が入り込み、体感を軽視し、判断を歪めるようになるおそれをはらんでいる。角幡はそこに無自覚、あるいは気が付かないふりをしている。人間は集団的動物であり、社会的な楽しさもかかせないということらしい。
【無駄こそ全て】
だとしても、命がけで山に入ったり北極圏を旅する必要はない、そんな無駄なことする必要がない、という意見があるかもしれない。だが、それを言い出したら人のする全てが無駄ごとである。藤井聡太は板上に駒を並べることに熱中し、大谷はボールを木の棒でひっぱたいて遠くに飛ばす工夫に余念がない。そしてその無駄な行いに集中することで生の実感を得ている。彼らは地図を持たないが、誰よりも充実した生を手にしている。角幡は、それを山の中で行っている。原始人のようにである。羨ましい。