【カタカナ果実の順応力】

 桑の実がすごいことになっている。熟して誰も、鳥でさえついばまないため、ぼとぼとと地面に落ちてくる。一帯は紫のエイリアン血痕がまき散らされたようである。対策としては、枝ごと剪定、除去するしかないが、それはそれで身体中を紫に染めることになるだろう。躊躇する。

 今年は茱萸、柘榴、林檎はほとんど実をつけないが、キウイ、プルーン、カボス、ユズが豊作のようだ。気候変動への順応力の差なのだろうか。

【日本語の美しさ】

 さて、李琴峰の『日本語からの祝福、日本語への祝福』を読んだ。最近、読書速度は低下の一途である。急に眠気に襲われて本を取り落としたりすることがある。ほとんどナルコレプシー状態である。ところが『日本語‥』は一気に読了した。

 興味深かったのは、外国人の日本語に対する印象である。カタカナの直線的な美しさとか、平仮名に意味がないことに対する驚きとか、それらが常に同一表記が同一音となる単純さなどは、日本人が気付くことはないだろう。英語話者からも指摘された覚えはない。李が気付いたのは、言語学者でもあるというだけでなく、異る言語を対等な文化の所産と見做し、公平、理論的に比較することがが可能な人だからなのだろう。

【選択しての女性】

 その李なのだが、途中まで女性、ひょっとするとレズビアンかなと感じつつ読んでいた。やっぱり文学は女にはかなわないよなあ、などと感心していたのだ。

 ところが、甲府市議を名誉棄損、プライバシー侵害で提訴していることを知った。トランスジェンダーに関するSNS投稿を巡っての裁判沙汰である。なんと「女性」ではなかったのだ。

【幸福を追求する人】

 しばらく混乱したが、思考を整理すると次第に、真に「自由」を思考する人なのだろうと理解できるようになった。日本語学習から、台湾大学進学、日本留学、日本での就職、芥川賞受賞まで、常に「最適解」を求めてまい進する。しかもやってのける。彼女にとって、性的なあり方さえ所与の特性ではなく、自ら「最適」に選択、実現するものなのだろう。哲学的に「幸福」な人だと思う。

【盆地の中の「お幸せな」人】

 甲府市議はその真逆である。親のいう通りに行動し、教師の認める好い子であり、夫に従う家内となり、おじさんたちの慣習を尊重する。身の回りのそのような生き方を受容する。そしてその盆地から、夫婦別正反対とか女系天皇否定とかの「理屈」をこね出す。赤の他人のジェンダーを揶揄するのもその延長なのだ。おじさんたちとの世間話のつもりで、「受ける」言説をSNSでちょっと発してみただけなのだ。不自由であることに気付いてすらいない「お幸せな」人なのである。

【巻き込まれたくない「お幸せな」人の喜劇】

 かくして、「お幸せな」人は「幸福」な人に敵対することになった。自業自得とはいえ、おそらくは目を回しているに違いない。周りのおじさんたちに何とかしてと訴えていることだろう。

 トランプもそうだが、「お幸せな」人の言動に己の生をかけての真摯さなど求めるべくもない。最後には、映画「Civil War」の結末のように、惑乱の中で命乞いし、惨めな最後を迎えることになる。周りの人を騒乱の中に巻き込み、文化を破壊しながらである。悲劇的な喜劇である。