【フランス映画って何?】

  暑い。郵便のために1キロほど歩いたら頭がくらくらしてきた。年寄りの冷や水ならぬ、年寄りの徒歩、ということなのだろうか。炎天下の運動は危険な行為となってしまったのかもしれない。それにしてもこうまで暑いと、蝉が鳴いていないのがむしろ不思議である。サボってないで、早く出てきて啼いたらどうだ、とついイジワルもいってみたくなる。

【フランス映画って何?】

 さて、仕事が暇になったので、積ん読の消化に努めている。それでも注文の本が次々と届くので、積み嵩は高まるばかりである。今朝方に読了したのはサラ・ベイクウェルの『実存主義のカフェにて』である。

 学生時代、実存主義に傾倒していた。傍流のカミュが贔屓で、全集を購入したほどである。その後も、キルケゴールからメルロ・ポンティまで理解に努めてきた。昨今の、実存主義って何?という風潮には逆に驚かされる。没哲学、無思想が当世風とはいえ、唖然とする。フランス映画がほとんど観られなくなったのに似ているかもしれない。

【君の耳は聞こえているか。】

 『実存主義のカフェにて』では、69名に言及しているが、核となるのはフッサールとハイデッガー、それにサルトルである。

 フッサールは現象学であって実存主義とは無縁、という理解を筆者はとらない。あらゆる先入観、偏見を捨てて、己の感性と悟性で外界を理解し、言語化していくという営為は、確かに実存主義に通じるものがある。

 武満徹が『私たちの耳は聞こえているか』で、ほとんどの人が音を聞いていないと指摘している。雀はチュンチュンと鳴く、と記号化した受容で済ませてしまい、実際の音を聞いていない、というのだ。そのように、実際に音が聞こえない人に、音楽は理解できない。武満のいってる事って、実は現象学だったのである。

 考えてみれば、大衆はそのように外形的に生きている。主体性なしに、本能と惰性と慣習で日々を送っている。動物が本能で生きていけるのと同じで、生物としての存続はそれで可能なのである。困るのは、人間は社会的動物なので、そのような生き方を他人にも強要するところにある。アフリカムスリムのFGMなどはその悪弊の典型である。意味がなくとも、むしろ有害であっても、いつかどこかで誰かが始めた「人はかくあるべき」がまかり通る。

【自由を否定する連中を支持する自由】

 現象学は、俺の耳は聞こえていると宣言することで、そのような決めつけを排除する。実存主義の現象学と異るところは、外界との関わりを重視し、外界の再構築に踏み出すというところにある。個人の判断に委ね、内向きの解釈に終わってしまうのではなく、外の世界の変革を試みる。

 しかし、ハイデッガーの試みは、ナチスへの接近になってしまった。サルトルも共産主義を評価した。ソ連に幻滅すると中国、あげくの果てにはポロポトにまで移ろっていく。外界の崇高な再構築を掲げながら、個人を統制し、自由を圧殺し、非合理的で恣意的な暴力を振り回すこととなったそれらの狂信への接近は、その支配が崩壊した時にツケを払うことになる。第一、個人の自由を至高とする実存主義者とは愛入れることのない政治体制だったのである。実存主義は、ナチズム、共産主義の失敗と並列的にうち捨てられた。

【遅ればせながらの復活】

 しかし、最近のジェンダーの視点は実存主義に裏付けられている。私はあなたから自由であるという論理は、権威主義に対抗する起点として有効で、ボーボワールの生き方は、いまでもアバンギャルドなのだ。

 2016年のニューヨークタイムズ「今年の10冊」に選ばれた本だという。実存主義が復活し、21世紀風に再構築されるときがやってきているのかもしれない。