【選択という選択】

 「選択」という雑誌がある。その今月号の、編集長後記的な「裏通り」に新聞広告について書いている。広告の掲載を、これまでのアサヒ、中日、東京の三紙に信濃毎日をくわえる、というものである。商売繁盛のようで結構なことだが、付随する記述が興味深い。

【新聞の凋落】

 一つは新聞部数の低落である。朝日はこの10年で半減し、2024年4月で342万部だという。「全国紙と呼ぶには心許なくなってきました」といわれてしまっている。中日が218万部、東京が394万部なのだから確かにひどい有り様である。

 信濃毎日を選んだのは、編集方針だけでなく広告戦略もあるようだ。39万部に過ぎないが、44%という長野での普及率を評価している。一定部数の普及による地方世論の相乗形成効果を考えているらしい。納得できる広告料、ということもあったようだ。

【雑誌の衰退】

 新聞に物足りないから雑誌を読む。商売に左右されない真実の報道があるのではないかという買い被りである。そういう意味では、新潮や文春は見出だけで十分である。煽動はあっても学びは乏しい。その雑誌の部数は新聞以上に悲惨な低迷にあるらしい。

 かつては定期購読していたが、今は廃刊となった、あるいはやめた雑誌がある。週刊朝日、AERAはオバサン向け雑誌になってしまったので止めた。週刊金曜日は信者になれないので止めた。世界も同様である。エコノミストは編集に芸がないので週刊東洋経済に変えた。その他にも有為転変があるが、そんな感じである。JpopやクラッシックのCD購入が稀なのと似ているかもしれない。

【碌でもないこだわりだが】

 電車に座っている人で新聞を広げている人など居なくなってしまった。もし出現したら、天然記念物扱いで一斉にスマホを向けられ、記録されるのではないだろうか。それでも、選別しながらも新聞や雑誌の購読をやめるつもりはない。

 今日の朝日に松重豊のインタビュー記事が載っている。号泣したというある投稿に関して、その投稿者と題材とされた小学校の元担任が写真付きで一面にまとめられている。教員は55歳教諭とある。セクハラかパワハラを趣味とし、隠蔽を習性とする出世主義者の顔ではない。いい写真である。ロックである。そのように、瞬時にあちらこちらに視線を走らせることができる。一覧性や再現性など、媒体としてWebよりすぐれているのだ。頭への残り方も異る。

 偏見だが、スマホでわかったつもりになっている人って、見出し広告で記事を読んだ気になっている人たちの同類だと思う。きっとスカスカのシナプス連結に違いない。ロックじゃない。新聞3紙を購読しているという松重豊は同志である。

花盛りの栗