【結構と啼く不恰好】

 朝に郭公の初音があった。例年並みのような気がするが、今年は郭公にとっては困った事態が生じている。

 東側に養鯉場をかねた池があるのだが、遊水地として整備する計画がある。そのために土建屋の資材置き場が撤去され、水際の葦もすっかり刈り取られた。新芽が出てきてはいるものの丈は1メートルもない。オオヨシキリには悪条件の下での巣作りとなる。営巣は激減するだろうから、郭公の托卵先も限られることになる。今年の繁殖は難しいかもしれない。結構とはいえないのである。

【放言の自由】

 さて、補選で演説妨害が指摘されていた「つばさの党」に当局の手入れがあった。党本部などが家宅捜索されたのである。党首は「妨害のつもりはない」、「表現の自由だ」といっているらしい。もうそれだけで駄目な連中だとわかる。迷惑をかけていることが認知できない阿呆か、知った上でそのつもりはなかったとする嘘つきなのか、そのどちらかである。どっちにしても駄目な輩なのである。

【識者のご意見】

 識者の見解はすっきりしないのが多い。

 朝日新聞は毛利透・京都大教授の「他の候補者の演説を妨害し、聴衆が訴えを聞けなかったのであれば自由妨害と捉えられても仕方ない」との指摘を掲載している。

 東京新聞は内藤光博・専修大教授の選挙の自由の前提である有権者の知る権利が侵害され、候補者の意見表明の自由も損なわれた側面がある」との見解を載せている。

 いずれも権利の対立としているのは正しいのだが、明快な説明となっていない。

【自由は錦の御旗にならない】

 権利の対立とその調整作用、すなわち公共の福祉に関しては諸説ある。芦部『憲法』では、裁判所の審査基準として「比較考量論」と「二重の基準論」に注目している。それらの理念を発展させれば、選挙運動における「候補者の表現の自由」と「候補者の演説の自由」とのいずれが優先されるべきか、という判断に帰結する。問題となっているのは、一般的な「表現の自由」ではなく、選挙運動中における「表現の自由」なのだ。また歴史的には「表現の自由」は「自由な政治活動」のために確立されてきたという経緯がある。「表現の自由」は他の権利を圧倒する至高の権利などでは無い。振り翳せばなんでも許されるというわけではない。「つばさの党」関係者に、そのような認識はまったくない。

【他者を否定するものは他者に否定される】

 演説に集まった公衆は、候補者の表現そのものの面白さや新しさを求めているのではない。政策を知りたいのであり、論理展開こそが重要なのだ。そのためには、同じ場所で候補者がかち合った場合には、ゆずり合って静寂な環境を作り出す調整が必要となる。「つばさの党」にはその形跡が見られない。調整を求めない、つまり相手の「候補者の演説の自由」を認めないということは、「つばさの党」の「候補者の演説の自由」をも否定しているということになる。自ら否定している権利を保護する必要などなく、「つばさの党」に対する規制に遠慮はいらない。「君たちは他人の権利を侵害しており、国民の参政権行使の障害となっているから排除する」である。選挙後まで控えるとか、裁判に委ねるとかするまでもなかったのだ。

【棚ボタの警察】

 警察が手入れに踏み切ったのは、世論の反発もないと見極めたからなのだろう。政権からの要請もあったのだろう。さらには、一般民衆の野次の規制がやりやすくなる法改正も可能になる。安倍政権時の無法な規制が裁判で違法とされるなどの失態は、今後は回避できることになる。思わぬ余禄である。バカは世を乱すだけでなく世を悪くせずにはおかない。どうも、そういう困った顛末となるようである