【WEBのビジネス】

 講談社に「現代ビジネス」というウエブメディアがある。皮相ではない本質的で「大局的な視座」を目指すとし、わりとリベラルぽい視点が見られる。ただし、高橋洋一が書いているなど、どこか胡散臭いところがある。本日配信の「仏教はなぜここまで日本で受け入れられたのか」もそういう記事である。藤田正勝なる人物が、『日本哲学入門』という本を編集したものだという。

【受け売りを受け売りする】

 その本がまた、西谷啓治なる人物の『講座仏教思想』の解釈を内容とする。独自取材ではなく、机に座っての受け売りの受け売りというわけだ。この辺が胡散臭いのである。

「…空、つまりシューニヤ(śūnya)というインドで成立した概念が「空」という中国語に移されたとき、純粋に理論の上でというよりも、「空」ないし「虚空」のもともとの意味である「目に見えるそら」と結びつく形で受容された」と西谷は指摘している。…

 …しかし日本ではより強く「はかなさ」や「むなしさ」、そういった気分と結びついたものとして「空」の概念が受け入れられていった。…仏教の理論がこのように気分的なもの、情緒的なものと深く結びつく仕方で受けとめられたために、日本では仏教が人々のあいだに受け入れられ、深く浸透していったということも言える。」

 よーするに「空」という概念が、中国では天の「そら」として、日本ではその「そら」の気分を意味する側面が拡大されて受入れられた。{シーニャ→そら→はかなさ}である。日本人は、本来の意味から転移した「自らの存在の不確かさ」という理解で仏教を受容した、というのである。

【分かったことにする人々】

 一言でいえばあほらしい、である。こういうのをありがたがるのが日本人の幼稚な知性なのだと思う。もちろんそうでない人もいる。鈴木大拙は、インドの「空無」が中国で「理事無碍」に転じたとしている。絶対無から相対無への変質である。日本人は、その辺を理解できず、ボツ論理的に気分として受け止めた。それで理解できたということにしてしまった。少しも理解していないのである。理解しないままの「浸透」は、仏陀とは無縁な土俗宗教として「深く根を下ろす」結果を招いた。誇れることなどではない。

【空の空なる理解】

 ちなみに、西谷には正確な理解の断片がある。

 「「空」の概念はインドで…すべての事物がそれ自体として存在しているのではないということを言い表す理論上の概念として成立した…」などがそれである。

 「色即是空 空即是色」とは、存在するものは法則とともにあり、法則は存在とはなれては現れることがない。それぞればらばらに法則だけ、存在だけではありえない、ということである。西谷は一応は理解している。中国日本と伝搬するにつれて、その民族的傾向によって仏教理解が変質していった、というのも真っ当な理解である。ただそれを、「はかなさ」や「空しさ」といった情念と結びつけるのは飛躍である。

【救われない理由】

 情念に解消して結論とするのは小人の特徴である。例えば、他人の批判を論理的に受入れず、あの人が批判するのは私を嫌いだからだ、とする。それで理解したことにする。実は、何も理解していないのである。

 まあ、理解したという気分にさせるだけでも記事は売れ、食うことが可能になる人がいる。日本仏教はそのようにして「深く根を下ろし」たのだから、報道出版もそれでいい。現代ビジネスは、そのようにしてビジネスを成り立たせているものらしい。