【またも春の雪】

 目覚めたら銀世界、である。昨晩3時には白くなかった(と思う)ので、早朝から積もり始めたのだろう。

 3時に猫に起こされた。出るから扉を開けろ、というのである。部屋の戸を開け、カリカリで腹ごしらえをしたのを見計らって玄関を開ける。添い寝の代償は、かくの如き就寝の中断である。これが1時ごろだと、再度入眠することも可能なのだが、2時以降になるとなかなか寝つけない。対策は読書である。時には、ipadを開くこともある。

 というわけで枕元に本は欠かせない。眼球を動かして睡魔を呼ぶ儀式である。素材などなんでも良い。昨夜は文藝春秋先月号の社の解散騒動記事だった。

【説教としての説教】

 さて、ipad画面に、新潮社の「ただ生きて死ぬだけ。人生に意味はない」という記事があった。どこかの偉い坊さんの説教である。結語部分は次のようなものである。

 『人は、「自分がここにいる意味」を問おうとします。人生の意味がわかれば、使命感に燃えて自信のある生き方ができるからです。…特定の神を設定しない仏教は「決まった意味なんかない。それはあなた自身が作っていくのだ」とします。…あなたが描いている人生という絵に、あなたはどんなタイトルをつけますか。それがあなたの今現在の人生の意味です。』

【非釈尊的実存主義】

 彼は、これが「仏教」だというのだが、ほとんど実存主義である。日本の仏教界に蔓延する訓話の欠片である。少なくとも釈尊の教えではない。

 それは普遍的ではないという点からも裏付けられる。無駄に元気な世代なら、自分の人生の意味を追求、形成することが可能かもしれない。しかし、老齢期の、樹間に放浪する世代が「燃えた生き方」など求めるだろうか。ホスピスの病床にいる人はどうだろう。鎮静薬と鎮痛剤を点滴される身体で「生きる意味を作る」ことなど可能だろうか。

【釈尊の慈悲】

 元気に働き、有意義な人生を謳歌し、喜んで創価学会に献金できるような人しか救済の対象としないのだとしたら、それ以外の命あるものを度外視するとしたら、それはマーラー、悪鬼の所業である。

 釈尊はすべての人の救済をめざした。今まさに死にかけた人でさえをも救う。人生の意味など問わない。何か有意義なことなどと粉骨砕身する必要などない。全ての有情は、そのままで宇宙の法に収斂され、反映される。それが仏教のはずである。

 綺麗な言葉には嘘がある。