【イギリス映画としての「生きる」】
DVDで「生きるーLIVING」を観た。その感想である。
原作は1952年制作の黒澤映画である。脚本は例によって、黒澤、小国、橋本共作である。それを、オリヴァー・ハーマナス監督がイシグロ・カズオ脚本でリメークした。
冒頭はまるで小津映画のように駅のホームから始まるのだが、この列車の走行が、黒沢未完の「暴走機関車」を連想させ、同時に時の流れを強く意識させる。「生きる」とは死に向かっての爆走なのである。
ウサギのオモチャや、ブランコのシーンなど黒澤映画と共通する要素もあるが、違うな、と感じるときも多い。感情移入が難しい。それが、英国と日本の文化の違いないのか、1950年代と現在の時代の違いなのかは判然としない。
【告解の舞台】
典型的なは、主人公の葬儀のシーンである。
黒澤の場合、自宅でもよおされ、その後に酒宴となる。そこで同僚たちとの回顧と反省、誓い、つまりは告解が示される。
オリヴァー版では、葬儀は教会、回顧は前述の通勤列車の座席において展開される。一見、社会の違いを反映した構成のようになっている。
しかし、現代日本において、自宅葬儀はマレである。大半が葬儀場ではないだろうか。お寺ではないが、自宅外という点においては共通している。教会だろうが葬儀場だろうが同じである。そのように日本が変化した。
【情感の喪失】
告解の場はどうだろうか。酒宴と通勤である。
英国のオリヴァーの場合、素面で、言語構成による一種の契約が取り交わされるている。人間のべっとりとした非理性的交流を嫌悪しているかのようである。その反故もなし崩しとはならない。国民性というよりは、現代的傾向の反映なのだと思う。
対して、日本の黒澤では、半酔状態で本音を披瀝しあう。没理性的な情感の交換である。したがって、容易に変更、キャンセルされうる。いやあ、あれは酒の席のことだから、である。
ただ、若年世代の飲み会敬遠の風潮が指摘されて久しい。そのような特殊日本的なあり方もようやく変わり始めている。意思の交換は、スマホを解して言語的に行われるのが常となっている。告解に等しい本音交換がなされているかは不明だが、情感の交換は不在である。
【ネアンデルタール人のような旧世代】
黒澤とオリヴァーの相違は、究極的には時代の変化がもたらしたものなのだと思う。そしてどちらかというと黒澤の方に共感してしまう自分がいる。「老いらくの恋」の相手の嫌悪感に満ちた拒否や、息子の利己主義ぶりの方が理解できる。腑におちるのである。ブランコで唄われるのも「ゴンドラの唄」であってほしい。どうしようもなく、旧世代に属する自分を確認してしまうことになった映画である。