土曜日の朝日新聞に、佐伯啓思の「異論のススメ スペシャル」が掲載されている。「対コロナ戦争」という表題である。
次のように展開される。
日本政府のコロナ対策は、国民への自粛要請というものだった。国家権力の行使という点において「中途半端」である。西欧デハ、国家の役割を人々の生命・財産の「共同の防衛」としている。ゆえに「国家(共同社会)の秩序が危機にさらされた時には、市民は最大限の公共精神を発揮して国家のために役立たなければならない」との合意がある。それが「共和主義の精神」というものである。
日本政府の対策が中途半端なのは、日本国民の「市民意識の欠落」のせいである。「現代の世界では、国家の危機という「例外状態」は徐々に常態化しつつある」のだから、「西洋型の強力な国家観を採る」べきである。コロナは悪であり、悪との戦いを戦争というのだから、今こそはまず、国民をさておいて国家を守らなければならない。
だから、「憲法の条項を停止した独裁(委任独裁)」を制度化せよ、と要求する。
もう目茶苦茶である。まず第一に、西欧政治制度を「西欧デハ」などとひと括りにすることはできない。北アメリカと欧州で異るし、英国型と大陸型でもその構想を異にする。どんなに理念的統一をはかっても、現実の運営においては国によって異る、というのが常識である。
だから、スゥエーデンのような対応をとる国も出てくる。それを、「個人の生命の多少の犠牲を覚悟して…社会全体を安定化する」という点において他の欧米諸国と同類である、などとすることはできない。スゥエーデンに対して失礼である。無理矢理に類型化して、でっち上げた類型に自縄自縛となっているだけである。
日本人に国家意識がないと嘆く必要などない。どの国においても、佐伯のようなインチキ野郎はいるし、健全な知識人もいる。トランプとバイデンをアメリカ人としてひと括りにすることなどできないように、人それぞれでしかない。
ルソーを引用して、国家がなければ人々の生命・財産の安全が確保されない。故に国家の危機に際しては国民の命を投げ出さなければならない、ともする。しかし、主権国家が登場したのは17世紀である。それまで、人々はいつ生命を奪われるかしれない動物的混とんにおかれていた、とでもいうのだろうか。誰がそのように実証しているのだろうか。人民主権論者ルソーなんか全く信じていないくせに、理屈のつまみ食いだけはするのである。
国家などなくとも人間は生きていく。どのような時代にあっても、人は社会を形成し、その運用のために制度を編み出し、改良してきた。鎌倉時代だって、江戸時代だって、人々の安寧を損なうような権力は、その存続が許されなかった。それが歴史を変化させる根本動因というものである。個人があり、社会があり、便宜的に国家存続が認められるだけのことだ。
最後に、独裁政府であれば万全なコロナ対策ができるのだろうか。中国が成功したといえるとしても、北朝鮮はどうなのだろう。ロシアやミャンマーはどうなのだろう。そこに伺えるのはワクチン供給力という経済力の差であって、権力行使のあり方による。むしろ、個人の声に耳を傾けない強権国家ほど、ワクチン分配が混乱し、国民を犠牲にしている。権力者に合理的精神がなく、科学を無視し、根拠なき楽観論に支配され、結果責任を取ろうとしないようでは、「戦争」に勝てるはずはないのである。馬鹿に強権を与え得たらロクなことにならない。
コロナ対策として必要なのは、どのような国家形態が望ましいか、誰に権力を集中させるかを論ずることではない。それはまるで、沈み行くタイタニックの上でエンジンの出力を論じ、船長の権限の拡大を論じているようなものである。エンジンをイギリス製ではなくドイツ製にし、船長をイギリス人から中国人にし、命令に従わない乗客は海に放り出す、などという結論が得られたとして、何の意味があるというのだろうか。沈没を止めることができるのだろうか。傾いた甲板の上で、太鼓を叩いてお題目を唱えるようなものである。
必要なのは、今ある制度を、どのように運用していくかである。各機関が、責務を責任を持って果たし、正確に報告、公開する事で統合し、一国全体の合意をまとめ上げる力である。強権を以て隠蔽し、改ざんし、なかったことにすることではない。
佐伯の嘆く日本の惨状の原因は国民が政府のいう通りに動かないからなどではない。明確に「政府の失敗」なのである。一日100万回ワクチン接種を自治体に強要しておきながら、確保しているワクチンが80万回分以下だったなどという失態を犯している。もう、ほとんど吉本演出の喜劇である。面白くも何ともない。
コロナ抑制に実効性がないのは佐伯の知性のほうであ理、中途半端なのはそのような人物に発言の機会を与えて悦にいっている朝日新聞の方である。
