薄暗くなりかけた頃、留寿都村JAのスタンドで給油をして一息つく。何しろ、千歳からずっとスタンドを見かけなかったのだ。北海道は、高速でなくともガス欠に気をつけなければならない。まさしく油断禁物である。

 また、留寿都温泉という小さな小屋があって、入浴料300円、65歳以上は200円と格安である。近くの道の駅に車中泊する爺さんたちでにぎわっていた。婆さんが番台を務めていて、それが程よく適当で、支笏湖のいやな気分を洗い流すことができた。

 さて、予定よりも距離を進め、フェリーの乗船予約まで丸1日時間が空いてしまった。豊島半島を松前まで行ってみようかとも考えたのだが、天候が下り坂、それも、かなりの本降りになりそうである。ということで、翌日は午前中の雨の様子を見て判断することにした。フェリーは1度だけ、変更可能なのである。

 翌朝、洞爺湖をかすめて豊浦港まで降りた辺りで天候悪化が顕著になってきた。雨の降り方がというよりも、肌に感じる気圧が野外活動は不適と告げるのである。そこで、その日の内に帰還の船に乗ることにした。それまでは伊達、室蘭、苫小牧を巡って時間を潰す。

 伊達市は、猛将伊達成実ゆかりの亘理の人達が移住して作り上げた町である。37号線沿「だて歴史の杜」に、コンクリート作りの城郭様式の大門がある。木造にこだわったりせず、開き直っているのがむしろ潔い。付近に道の駅、歴史文化ミュージアム、アートホール等の施設が建ち並ぶ。観光物産館は充実しており、名産のメロン等を購入した。

 文化ミュージアムでは「政宗と成実展」開催前で、常設展の展示物は多くはない。1階での藍染め体験などの方が売りのようであった。それでも、亘理が維新時に2万4千石の領有から130俵の給米取りにされてしまったということを知った。おそらくは、当主の邦成が主戦派であったからであろう。仙台藩削減分に比例して1万石にではなく、58石相当である。館員がほとんど取りつぶし、といっていたが、まさにその通りである。岩出山や白石という由緒ある家臣も同様に削封されたらしい。この頃の新政府系の連中のやり口とはそういうものである。

 そこで、家老の常磐新九郎の勧めで、家中を上げて有珠湾に移住してきた。総勢2700人弱の老若男女である。伊達市は、他藩と異なって統率がとれ、内紛分裂がなかった、と案内に誇らしげに記している。その効があってなのか、邦成は後に男爵に序せられている。

 常磐は後に田村氏に改姓している。支藩一ノ関のあの田村右京大夫の田村である。新九郎と田村氏がどのような関係にあるのか、館員に聞いてもさっぱり要領を得ず、WEBでの検索も困難である。解明は今後の宿題である。

 なお、邦茂、新九郎ともに、押川方義から洗礼を受けている。仙台とのゆかりは、そのようなところでも維持されていたようである。

 アートホールでは大藪雅孝展を開催していた。もともとは宮尾登美子記念館だったようである。宮尾はこの地を気に入り、その晩年の数年間を過ごした。そこで記念館まで建ててしまったが、今は閉館してアートホールに転用している、ということらしい。館員の話では、大藪は宮尾の知人であり、共感してこの地に移住してきたとのことである。

 さて、芸大出、芸大教授だった大藪の絵はまるでレリーフである。絵の具が、カンバスから数センチも盛り上がっている。芸大の厚塗りを放置するとこうなるという見本のような作風である。盛り上げてあるのはただの油絵の具ではない。大藪が独自の工夫を凝らしたもので、その3次元構造に耐えるだけの堅牢性を備えている、と自慢していたらしい。事実、剥落等による修復はまだない、との話であった。

 ただし、である。立体感を醸し出すために絵の具を立体化させる、というのは敗北であり、邪道ではないだろうか。絶対に彫刻にはかなわないし、2次元においてなお、3次元、4次元の表現をするのが絵画である。そのために技量を磨く。ミケランジェロもラファエロも、平面において立体的に描くことに成功している。

 室蘭はすぐ近くである。白鳥大橋を渡り、トッカリショを見てはい終りである。石炭の積み出し港で、森町との間に定期航路があったという。ここで、急浮上してきたのが森町である。今までほとんど関心外の地域だったのだが、幕末から維新にかけては、軍事、経済上重要な拠点だったらしい。ただし、室蘭からは内浦湾をぐるっと100キロ近くへだてた遠隔地である。訪問は次回の宿題とする。

 激しくなってきた雨の中を苫小牧まで走り、公設卸売り市場に至った。場外市場で海産物の土産物を漁ろうと考えたのである。特に、昆布がほしかった。羅臼の漁協や各地の土産物屋に並べられていたのを見ているが、卸売市場なら品数、種類も豊富で、格安なのではないかと期待していたのだ。ところが、市場の賑わいはさっぱり感じられず、日高昆布も土産物屋よりも高い値段がつけられていた。駄目だこりゃである。土日の観光客専用の施設のようである。

 そこで、あまった時間を食堂の行列に費やすことにした。何か、長蛇の列があったのである。周囲に帯広名物焼きそばの幟がはためいているので、B級グルメ的に有名な店なのだろうとみなし敬遠していたのだが、時間潰しにはちょうどよい。行列もまた楽し、である。

 そこで雨の中、約1時間並ばされた。船員相手の食堂なので、港の連中を優先する。建物の中には並ばせない。ということで、入口からの行列がなかなか縮まらない。おばさんたちが、行列が大変だが、あっちの食堂なんか高くてマズイと、厳しい比較を披瀝していた。地元の人達にも高名で、特別な食堂らしい。マルトマ食堂という。

 傘を差していないのに雨がだんだん激しくなってきて、もう無理かと思い始めた頃に中に入れてくれた。雨に濡れているのを見て、例外的に室内で並ぶのを許してくれたようである。優しい姉さんなのである。

 ハヤシと見まごうばかりの黒い色のホッキカレーが名物らしいが、ウニ丼にする。八戸でのウニの軍監巻の味が忘れられない。最後くらいおごってもいいだろうと財布をはたいたのだ。といっても1500円でしかない。どんなのが出てくるのかと期待していたら、なんと、どんぶり飯の上に、木箱一舟がどんと載せられて出てきた。

 はしで飯の上にウニをこそぎ落として、ワサビ醤油をかける。飯はすし飯ではない。ごく普通のご飯である。味は、ミョウバン処理なので八戸には劣る。しかし、いつかやってみたいと考えていたウニの木箱独り占めが図らずも実現した。それだけで満足するべきなのかもしれない。小柄な爺さんが、一心不乱に孤軍奮闘していたが、みそ汁が極めて美味であった。腕はいいのだ。

 というわけで、秋田に寄港した後、苫小牧から20時間かけて新潟に戻ってきた。退屈もまた、船旅の醍醐味である。