今朝、新聞を読んでいて、ふと気がつくと発行日の表記が令和になっていた。なるほど、改元されるとはこういうことかと妙に納得し、開眼した。1日で、時間表記が一斉に変わる、というものらしい。
 昭和から平成のときには、外国にいた。崩御とか、平成とかの文字は、帰りの飛行機の中の新聞で初めて眼にした。何か日本では大騒ぎのようだ、といった感想だった。
 平成から令和への改元を実際に体験してみると、日本人てこういうものだよなとマスコミがまとめようとしている、という感じである。意外性はほとんどない。マスコミってそういうものである。世の中には、呼び名を変えるだけで現実が変わると信じることのできる人が大勢いる。そういう錯覚を利用して商売に活用するのが元号の役割、なのである。
 令和に関しては安倍の意向が強く反映しているという。それでは安倍は、令和を利用して日本国民をどこに連れて行こうとしているのだろうか。やれる女にかみついた山本女史が、SPA編集部に、あなた達はどのような社会にしたいと思っているのか、と問い詰めていた。重要な視点である。しかしあの安倍に、目的地などない。移動するための長時間を律する時間軸など持たないからである。
 昨日のNHK特番で、女性天皇に反対した平沼赳夫が映っていた。今上天皇の後、悠仁殿下一人が皇統となる。その後も女子しか生れない可能性があるが、その時はどうするのかと尋ねられて、男の子がたくさん生れると信じるしかない、というように答えていた。つまり、何も考えていない。その結果、己らの我を通すためならば、天皇制なんか滅んでも構わないとしているのである。何という不敬であろう。逆賊の徒とはこういう輩を指すためにある言葉である。安倍も同様である。
 右翼の心性とは、自分の主観をそのまま客観に転換する、というところにある。その拠り所として用いられるのが伝統である。外国の権威を持ち出すと左翼になる。両翼の違いとはその程度のものであり、現実変革の戦略、方法論がないという点では共通する。主観絶対だから、嘘のつき放題であり、失敗も美しいとしてしまう。デパートの床の上で大の字になってものをねだる子供のようなものである。好意的にたとえれば、黒澤の椿三十郎に出てくる加山雄三らのような連中である。
 その過程で、周囲の無関係な人々を巻き込むことなどに頓着しない。バカが騒いだものだから、三船は何十人もの人を切らざるを得なくなる。悲惨なのは巻き込まれて切られる人々である。天皇家ですら巻き込まれる。国民ならなおのことである。で、皇統が失われたらどうすると尋ねられると、口をあんぐりと開けて言葉を失ったままになるのである。
 令和になっても、平沼のエントロピーは加速度的に増大し続け、老化の度合いは一層進んでいく。ますます有害な存在になることであろう。国民は、ガキの精神にとどまったジジイに振り回されてはならない。天皇家を玩ばさせてはいけない。