『しんがり』と『絶倫の人』を読了した。いずれもルポ風の読み物である。途中で小説なのか、と気がついた。『しんがり』はほぼ2日だったが、『絶倫の人』は半月以上を要した。内容量の違いもあるが、対象が山一証券とH・G・ウェルズということにある。19世紀生まれの英国人になど、あまり興味を持てない。
『しんがり』は、ごく普通のサラリーマンが、自主廃業した勤め先の後始末をさせられる内容である。非常時には、凡人だと思われていた人が超絶的能力を発揮することがある。根底にあって突き動かすのは、人間に対する誠実さ、ということらしい。人は皆「ひるあんどん」であり、誰でも大石となる要素を有しているのかもしれない。
『絶倫の人』は、タイムマシンなどのSFで知られ、社会主義的な言動で活躍したウェルズの女偏歴を主たる内容とする。次から次へと若い女を篭絡し、ともかく『絶倫』なのである。非凡な才能、良識の人であっても、人間的には単純に動物的でありえるということである。これもまた、誰でもそのようなものであるかもしれない。
読後に、そのような整理をしている自分に気がついて了解した。両書とも、記録物の体裁を装ってはいるが、純然たるルポではない。記録に基づく多様な事実を、筆者の主観で繋ぎ合わせることで全体としての主張を形成する、「伝記小説」である。読後に残る印象のほとんどは、その付与された「意味」の部分なのである。そのような虚構が、己の考えとして取り込まれたり、他者に対して自信を持って披瀝されたりするようになる。社長や校長の訓話などは、たいていそのような類いである。
『絶倫の人』の訳者あとがきで、「伝記小説」に対する批判があることが紹介されている。確かに、真実でないことを疑いえぬ事実として定着させてしまう危険がある。しかし、正確な「伝記」など実は不可能である。「伝記」は常に「伝記小説」としてしか成立しないのだ。そして、人々の価値観にとんでもない影響を及ぼす。最たるものは『聖書』である。イエスを理解していると思っている人は、そこに書かれていることを疑うことをしない人達なのである。
同様の効果を、露骨に展開する新興宗教もある。「霊言」とやらで、死者どころか生者にも語らせる。実に卑劣な曲言、歪曲である。しかしこの手法は、インチキ教祖の専有物ではない。学生の頃、高名な学者がマルクスとケインズを対話させる本を出版していた。「霊言」そのものである。「簡単」とか、「高校生にもわかる」とかの概説書の大半も同類である。それだけでなく、学説の紹介そのものが、程度の差があるだけの曲解なのかもしれない。翻訳ですら疑わなければならないだろう。
人生観は誤解で成り立っているかもしれない。そのような理りに、あらためて気づかされた、という次第である。