本日は終戦記念日であるので都内某区のはずれにも元気よく街宣車がやってくる。
日本国歌にドップラー効果は相応しくないみたいだ。ぢゃあ、どの国歌なら
相応しいかと言われると困るのだが途中で調子が転ずる「千代に八千代」にの、
「や」の所からなら、と真剣に考える必要は当然ない。既に午後三時現在で4回は
その手の車に遭ったわけだがいつも不思議に思うのは、街宣活動のお金の出所は
想像出来るが、あれって時給どのぐらいっすかね。意外とアルバイトとしては
どーよ、と考えた。
やばいかもしれないので話を変える。学生運動をしていた年寄りと話していて
感じるのは「死のセンチメンタリズム」である。いつ死んでもおかしくなかった
という状況の中で自分を歴史上の大物になぞらえ死場を探しながら生きていった若者達。
その前は戦争という死場があったが現在では人はこれと言う死場もなく
何の為に死ぬという事を考えないということは裏を返すと何の為に生きるかと
言う事も考えることが少なくないか。と言うと小論文書く時に年寄りでロマンチストの
採点官に受けが良さそうだからとりあえず言ってみた。彼の時代に死ぬ為の対象と
されたやむごとなき方の出自を歴史からよおおおく洗うと、ライトウィング的には
好ましくない国にあたるということはどのように、、、いや私のような小物が
命を狙われることはなかろうが、またやばくなったので止める。
というわけで時代のせいにすると世の中まとまりやすいが結局のところ逃避である。
げ。あたくしが宿題から逃避しているというオチか。