
3年が過ぎた3月11日。
この日を迎えて思い出すのは、何がなんでも子どもを守りたいという母親としての気持ちと、
すぐに被災地支援に動いた同僚・友人たちへの信頼と感謝の気持ち、
そして、大切な人を失った人たちへの祈り。
震災数日後、大阪のゲストハウスに、3歳と1歳だった子どもたちと避難した。
放射能の関東地方への影響がわからないまま、子どもたちが寝てからはひたすら情報収集を続けた。
まずは子どもたちの安全確保をしたけれど、同時に、被災地に対して何もできない自分という、
どうしようもない罪悪感のようなものも苦しかった。
震災から数日後、石巻に調査で向かった同僚で友人の祥法に電話して現地の状況を聞きとり、必死で書き留めた。地理もわからない町で子どもたちも連れてインターネットカフェを探し歩き、なんとか発信したのが以下の記事。不安と罪悪感と、動ける同僚へのありがとうの気持ちがあふれ、泣きながら祥法の話を聞いた夜、ずいぶん前のようだけど、昨日のことのようでもある。
●当時のブログ「石巻で活動する同僚からの現地報告」
http://ameblo.jp/sunday0106/entry-10836764376.html
当時、「なにかしたい」という思いを抱えた人たちを躊躇させたのは「ボランティアは時期尚早」という言葉だった。でも、現地を視察してみれば、人の手がなくては助からない場所だらけ。このとき全国からボランティアを集め、行政と連携して受け入れの体制を整えた動きはやがて「石巻モデル」という言葉になった。ピースボートの災害支援活動は「PBV:災害ボランティアセンター」に昇華した。これまでにのべ8万人の人々がPBVから石巻での緊急支援・復興支援に関わり、今では災害ボランティアリーダートレーニングのプログラムなども行っている。
私自身がようやく石巻や福島を訪れることができたのは震災から2年もたった、去年の夏。
子どもたちが母なしでお泊まりをできるようになってからのことだった。
今も震災のときのまま残された学校、
今も仮設住宅に暮らす人(26万人以上)、
今も1μsv/時を超える場所、
あの日からそのままの状態の家の中まで雑草が生えた原発20km圏内、
南相馬で子どもを育てるお母さんたちの気持ち、
東北の人たちのあたたかさ…
全部インターネットでも「知っていた」つもりのことだったけど、
実際に出会うことで自分の中に芽生える責任や重みはまったく別のものだ。
震災と津波のこと、原発事故、失われた命、人のつながりの確かさ。
3年前に感じたいろいろは、絶対に忘れないで、子どもたちに語り継ぐ。
「ママ、またその話~?」って言われたって、やめないよ。
地震は必ずまた起こる。
そのときにどう動いて、どう助け合ったらいいか、そのためにどんな町づくりが大切か、
おばあちゃんになっても、孫にだって語り続ける。
今朝、朝食の前、子どもたちと一緒に手を合わせて祈った。
「今日で、東北で大きな地震と津波があってからちょうど3年がたちました。
地震や津波で家がなくなった人がいます。
大切な家族をなくした人がいます。
原発事故で自分の町に住むことができなくなった人がいます。
みんなが、昨日より今日を穏やかな気持ちで過ごすことができていますように。
助け合いの気持ちが広がって、命が何より大切にされる日本になりますように」
震災前には確実にあった誰かの幸せが、一瞬で奪われた日。
過ぎたことは戻ってこないけれど、ありがたくも命があるのだから、
誰かの役に立ちながら、1日1日を丁寧に生きたい。
黙祷。